2007年10月21日  聖霊降臨後第21主日 (C年)


司祭 ペテロ 浜屋憲夫

1. 今日の福音書は、「不正な裁判官の譬え」と言われて来た箇所です。イエス様が弟子達になさった譬え話なのですが、「不正な裁判官の譬え」と言い慣らされてきたとおり、イエス様はこの話の中で神様を裁判官、それも『自分は、神など恐れないし、人を人とも思わない。』等と口走るとんでもない裁判官、不正な裁判官にたとえておられます。このお話を読む人には、この譬え全体が何を語ろうとしているかを考える先に、先ずこのことがつまずきになるようです。
   
2. 何故、イエス様はよりによって神様を、こんな不正な裁判官にたとえられるのか、この不正な裁判官と神様とどんな、そして、何の関係があるのか。納得しなければ、前に進めなくなるんですね。丁度、あの悪いことをして友達を作った管理人をイエス様がほめられた「不正な管理人の譬え」と同じようなつまずき、抵抗を多くの人がこのお話を読んで感じるのですね。
   
3. このお話の注釈や、この箇所に関する説教をいろいろ読みますと先ず、そのことについてひとしきり論じてから、本論に入っていくというのが殆どです。本論と申し上げたのは、イエス様がこのお話で弟子たちに教えようとされたのは、別に「神様は、不正な裁判官なのだ」等ということではなくて、イエス様御自身が今日の福音書の冒頭で語られたように、『気を落とさずに、絶えず祈らなければならない』ということだからです。そのことこそ本論で、そのことを教えるために、イエス様はこの譬えを使われたのですね。
   
4. 神を神とも思わない、人を人とも思わないとんでもない裁判官に、一人の夫を亡くした女性が、訴えにいった。もちろん神を神とも思わない、人を人とも思わないとんでもない裁判官ですから、そんな女性の訴えなんか聞こうとしない。しかし、この女性は、しつこく、しつこく、断られても、無視されても、あきらめず訴え続けたのです。
   
5. 丁度テレビのニュースで薬害C型肝炎訴訟について、桝添厚生労働大臣が和解による早期解決に意欲的だという報道をしていました。この訴訟も何年やっていたのでしょうか。患者さんたちの決してあきらめない訴えが政府を動かすことになったということなのでしょうか。
   
6. 聖書の話に戻りますと、この裁判官は結局この女性の訴えを聞き入れるのですが、その理由はこの女性に同情したからでもなく、この女性の言い分を詳細に検討したからでもありませんでした。ただ、ただこの女性のしつこさに根負けしただけだったのですね。この女性の訴えを処理して、済みにしなければいつまででも、しつこくうるさく言ってくるからという理由だけでした。
   
7. そして、イエスさまは、弟子達に、この女性のように神様に祈り続けなさいと教えられるのです。不正な裁判官をさえ根負けさせるように、しつこく祈れ、そうしたら必ず神様は聞いてくださるという話であります。
   
8. こういう話ですから、話の趣旨としては、全くそのとおりという話で、ひとつも難しいことの無い話です。
   
9. 私は、多くの学者、説教者の方が、この「不正な裁判官」につまずくのは、この話の中にある、ユーモアがわからないからではないかと思っています。あきらめずに祈ることを教えるのに、とんでもない裁判官としつこい女性を譬えに引っ張り出すのは、どう考えても私にはユーモアとしか思えません。
   
10. イエス様は、この話しをしゃちこばった、それこそ裁判官のような顔をして厳かに教えられたのではなく、きっとちょっと微笑みながら、いたずらっぽい顔をして、面白い譬えとして語られたのではないかと思うのです。この話をイエス様のユーモアとして受け取らずに、何か真面目な説明をしようとすると、何か抜け出せない解釈の迷路に入ってしまいそうな気がするのです。そして、私には福音書の中には他にも「ユーモア」という視点をいれるとよくわかる話が結構あるような気がしています。
   
11. もし、この話をユーモアでなく、あくまで真面目に、ストレートに読もうとするなら、私達が祈っても、祈っても、願っても、願っても答えが与えられない時に、神様はどうして聞いて下さらないのだろうという気持ちになって、神様がこの冷たい裁判官のようなに思われてくる時はあると思います。そんな時に、この「不正な裁判官でも・・・」という話は、なぐさめ、励ましになるかもしれません。
   
12. そして、今日のイエス様の教えの中で、肝心なのは、この祈りが聞かれるように思われない時の問題だと思います。どう持ちこたえるかということだと思います。イエス様は、そのことをよくご存じだから、弟子達に教えられたのだと思います。祈りは、答えが見えない時に 持ちこたえてこそ、祈りなのだ。やめずに祈る。やめずに祈る。それしか無いのだと教えられるのだと思います。
   
13. またニュースの話になりますが、さっきの薬害訴訟の話は嬉しい話でしたが、またネットの自殺サイトの主催者が逮捕されたことも報道されていました。実に、気が重くなる嫌なニュースでした。何ともやりきれない思いになる話でした。そんな自殺サイトに集まる人たちは、やはり何か答えを求めていたけど、答えがでるまで待つことが出来なかった人たちではないかと、しきりに思われたことでした。待つことが、出来ないというよりも、答えが無いと生きていけないと思いこんでいる人たちなのでしょう。
   
14. 祈るということ、そして信仰者として生きるということは、私達が、まだ答えが与えられていなくても生きていくことが出来ると思うことができるということではないかと考えています。もっと言うと、答えを待つことそのこと、答えの無いことに耐えるそのことが、そのまま祈りであるとも言えると思います。ネットの自殺サイトに集まる人たちに無いのは、まさにこのような意味の「祈り」なのではないかと思うのです。
   
15. 繰り返しになりますが、今日の譬えを語られたイエス様は、祈っても、祈っても答えが与えられないこともある、そして、そんな時私達が気落ちする、今の言葉でいえば、落ち込むものであるということを、本当に知っておられる。だからこんな面白い譬えで、微笑みながら私達をはげまし、諦めず祈ることの大切さを教え、そしてその諦めない祈りはきっと聞かれるのだと励ましてくださっているのだと思うのです。