2007年11月11日  聖霊降臨後第24主日 (C年)


司祭 ヨハネ 石塚秀司

どうか わたしの言葉が書き留められるように 碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され いつまでも残るように。わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。(ヨブ記19章23−27節)

 きょうの旧約日課はヨブ記が読まれます。ヨブという人はどういう人であったかと言うと、大変信仰心が篤く行いの正しい人で、家族からはもちろん神様からも人からも愛されていました。財産の面でも非常に豊かで、何不足なく幸せな暮らしをしていた人物として最初は描かれています。ところが、突然ある時を境として、強盗や自然の災害に次から次と襲われ、その果てには財産も家族も全部失ってしまう。それまでの幸せな生活はことごとく奪われてしまいます。それだけではありません。ヨブ自身の体中に激しいかゆみを伴った腫れ物ができるという重い病気を患います。このようにして、天国から地獄の苦しみに突き落とされてしまいます。そんな中で、「自分は何も悪いことはしていないのに、何でこんな災難に苦しめられなくてはならないのか」とヨブは自問し続ける訳です。そして、ヨブの苦悩を知った3人の友人が彼を慰めようと訪れてきては、なぜヨブの身にこのようなことが起こったかなどについて、ああでもないこうでもないと議論をしていきます。友人たちは、ヨブの災いは人間の罪悪に対する神からの罰に他ならない、罪を犯し不義を行ったものはそのために苦しまねばならないといった、いわば因果応報的な宿命論を語るだけで、ヨブの慰めにはならなかったようです。当時のユダヤ教の教えからヨブの災難を見るだけで、ヨブの真の姿、その苦悩を理解しようとはしません。そんな風にいろいろ言われる中でヨブは、「いや違う。何でや、何でや」と悩む。彼は財産を失っただけではなく、もはや家族もいない、友人も理解してくれない、そういう意味ではまったくの孤独でありました。彼の生活の幸せを保証してくれていたと信じていたこの世の一切のものをはぎとられたんです。しかしヨブは、その混乱と失意の中で、最終的には主なる神様を仰ぎ見る、より深い信仰に目覚めていきます。「この皮膚が損なわれようとも、この身を持って、わたしは仰ぎ見るであろう」と。それが今日朗読された箇所です。このようにして、ヨブは、深い動揺の中で、濃い霧の中で何も見えなくなったような、混迷の中で、再び生きる道を見出していきます。それは、神によって生きる道でした。
 考えてみますと、私たち人間の心というものは、ものすごく揺れ動くものですよね。何かの異変が起きて、それまでの生活が奪われるような状態になって、様々な噂が飛び交うと、憶測や疑心暗鬼に支配されて、一体何を信じていいか分からなくなります。そして、精神的にも肉体的にも消耗していきます。きょうの旧約聖書のヨブ記もそのような人間の姿を伝えていますが、彼はそういう中で贖い主である神への深い信仰へと導かれていきます。
 ヨハネ福音書の14章1節以下で主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われ、道が分からないと言うトマスに対して、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と教えられました。この世の様々な変動の中にあって生き、悩み、もがいている者を、創造主である神様のもとに導く贖い主、導き主としてイエス・キリストは私たちのもとに来てくださいました。そして、「心を騒がせるな。神を信じ、わたしを信じなさい」と信仰への道へ招いておられます。