2008年1月20日  顕現後第2主日 (A年)


執事 アンナ 三木メイ

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネによる福音書1:29−41)

 ヨハネによる福音書の記者は、最初の章で、イエス・キリストを神と共にあった「言(ことば)」といい、またすべての人を照らす「光」であると言い表しました。「光」はこの世の暗闇の中で輝いている。しかし、暗闇は光を理解しなかった。「言」は世にあったが、世は「言」を認めなかった、と語られています。まだ誰もイエスを神の子・救い主と理解して認め、そう信じて人々に伝えていなかった時、最初に「まことの光」であることを証しし始めたのが、洗礼者ヨハネです。彼は、自分のことを「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」とといい、来るべきメシアの到来を預言し、「主の道を備えよ」と告げ知らせながら、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていました。
 洗礼者ヨハネとイエスとの出会いの場面は、とても唐突に描かれています。
 「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」。そしてヨハネは、このイエスこそ自分の後から来るメシアであり、この方がイスラエルに「現れるために」、自分は水でバプテスマを授けにきた、と語ります。このような証しをする前に、彼がイエスとどのような会話をかわしたのか、かわしていないのかは書かれていません。しかし、イエスこそ神の子であると証しする理由として、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と告げます。その翌日、ヨハネはイエスをみつめてまた「見よ、神の小羊だ」と言い、それを聞いた二人の弟子たちは、イエスに従っていったのです。
  イスラエルの民は、神様に対して人間が犯してきた罪の代価として、小羊を犠牲にしてささげる儀式を行ってきました。その小羊のように、人々に罪の赦しを得させるために十字架上で死んでくださり、復活されたのが神の子、イエス・キリストであり、神はそのようにして私たちに限りない愛を表し、救いの道を開かれた。そういう信仰を告白しているのが、キリスト教会です。洗礼者ヨハネの言葉と行いをじっくり見つめてみると、そこにはキリスト教会が担ってきた使命が重ねて描かれていることがわかります。イエス様が誕生してから約2000年後のこの暗闇多い世界において、すべての人を照らす「光」と「言」を証しする「荒れ野で叫ぶ声」となること。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と救い主イエスを証しし、告げ知らせ、讃美すること。そういう宣教の使命を果たしていくために必要な力を、私たちは聖霊によるバプテスマ(洗礼)によって授かっています。「小羊」は小さく弱い存在です。でも、神さまはその小さく弱い存在を用いて、恵みと平和を与えてくださるのです。私たちも、一人一人は小さく弱い者ですが、救い主がこの世に「現れるために」、主の平和を祈り求めていきましょう。