2008年1月27日  顕現後第3主日 (A年)



執事 アグネス 三浦恵子

 イエス様は、洗礼を受けるためにヨハネのところへ来られました。しかしヨハネは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と伝えます。戸惑うヨハネに「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と言われ受洗されました。イエス様の強いご意志は、神様のみ旨を確信されていたからと察することができます。水から上がられたイエス様は、神様の霊が御自分の上に降って来るのを御覧になりました。その時からイエス様は、神の子としての使命を強く自覚されたといえるでしょう。その後イエス様は、ヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤに退かれました。イエス様は宣教を始められる時、異邦人の地と言われていたガリラヤに退かれたのです。
  「ゼブルンの地とナフタリの地、
 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
    異邦人のガリラヤ、
 暗闇に住む民は大きな光を見、
 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
 イザヤ書8章23節からの聖句が引用されています。預言者イザヤは、ガリラヤに世の救いとなる光が現われることを預言していました。ガリラヤは紀元前900年から700年代にかけて、ゼブルンとナフタリという地に隣接していて、何度も異邦人に代わるがわる支配された土地でした。そこに住む住民は強制移住させられ、人種、宗教、文化は混合状態となり、正統のユダヤ教から見れば汚された土地と見なされていたのです。そのような地域に光が射し込むことにより、そこに住む人々に救いが実現することをイザヤは預言していました。
 退くということでは、マタイによる福音書の箇所でイエス様が幼子の時、ヘロデ王から逃げエジプトに退かれたことを思い出します。(マタイによる福音書2章14節)ヘロデの死後、ヘロデの子どもアルケラオがユダヤを支配している間も、ガリラヤ地方へ退かれました。そのようなイエス様の退かれる姿から、とても人間的で、そして、相応しい時を待つ姿が思い浮かびました。その後も危険な状況や権力者からの迫害に合う度に、歩みを止め、前進するばかりではなく迂回の道を選ぶイエス様の姿に出会います。今、イエス様は、みじめだと思われていたガリラヤから宣教を初められました。「退き」と「時を待つ」ことから、イエス様は宣教を始められたと言えます。それは、イエス様の退きと隠れの中に、弱さと闇の中に、神様の光が射し込み、イエス様の十字架の道行きの歩みが開始されたことを現しています。その歩みはイエス様ご自身が栄光を現される道行きです。
 イエス様はやがて、ガリラヤの地に住む漁師であるペテロとその兄弟アンデレが、網を打っているのを御覧になって声をかけられました。またゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると彼らをお呼びになりました。黙々と日焼けした体で網を打つ姿、破れた網を一針一針直す姿に慈しみの目を注がれたのです。
 私たちは、日常の歩みの中で順調な時ばかりではないことを多く経験しています。もろく、みじめな存在であると知った時、生きる力が弱く小さくされることがあります。光を見失い、暗闇で不安な気持ちを抱き過ごす時があります。しかし、自信に満ちた姿で前進する姿ではなく、困難を抱え力なく暗闇で「退き」隠れている時に、神様は、目を止められます。暗闇の中でこそ、射し込む光は、温かさと輝きを放ち、人を闇から光の方へと歩み出すように導いてくださいます。「退き」と困難の中にこそ勇気と励ましが与えられます。私たちの洗礼も、その時神の子としての使命が与えられイエス様に従う私たちの歩みが始まると言えるでしょう。