2008年3月2日  大斎節第4主日 (A年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。(ヨハネによる福音書 9章4節−7節)

 私たち人間の身勝手な思いや行動によって、「なぜ、こんなことが・・・」と思うようなとんでもない事件や出来事が繰り返し起こると、私たちはこんな思いを心の中に抱くのではないでしょうか。「新たに生まれ変わることはできないのか・・・・、この社会が、愛すること、共に生きること、平和に生きることを大切にする社会に新たによみがえることはできないのだろうか」と。そして、このことと、イエス・キリストの十字架の死とご復活とは決して無関係ではありません。いや、聖書はそのことのために、主のご受難とご復活の出来事を伝え、あなたも神様の救いの恵みに与るようと招いておられます。
 フランスのテゼ共同体の創設者であり指導者であったブラザー・ロジェはこういう言葉を残しています。「まず自分の内側から始めねばなりません。・・・何よりもまず私たちが愛を実際に生きるときに、わたしたちの信仰は周りの人々に信頼され伝わるのです」。私たち一人ひとりが、うわべだけではなく、神様の愛の命によって内側から新たにされ、具体的に愛に生きるときにこそ、信仰は周囲の人々に信頼され伝わっていくものでありましょう。そして、一人ひとりが新たにされることによって社会もよみがえる、この希望を示し現実のものとするために、イエス様は古い自分に死ぬ十字架を担われご復活というみ業を現し、信じる人たちに宣教という使命を与えられました。
 さて、ヨハネによる福音書9章1節以下では、イエス様が通りすがりに出会った一人の人を癒された物語が記されています。その人は生まれた時から目が見えない人でした。当時の社会には、病気や障害は罪の結果という考えがあったのですが、その考え方からすると、この人は罪深い存在であり、社会の一員として認められず排斥されていた人ということになります。ですから、彼は物乞いをしながら生きていくしかなかったのです。障害があるということ以上に、このことがどんなに辛く悲しいことであったでしょうか。でも、イエス様はそのような考え方見方をきっぱりと否定され、その人の中に神様の救いのみ業を現されます。
 その神様のみ業とはどのようなものであったのか。それはここに描かれている彼自身の変化の中に示されています。失われていた肉眼の視力が回復されたということと重ねあわされて、もう一つ、いやそれ以上に大切なメッセージがここで述べられています。目が見えるようになった彼は、恐らく、当時の人たちの誤った偏見と物乞いという希望のない屈辱的な生活から解放されて、自分の頭で考え、選択し、自分の手と足で生きていける、すなわち自立した一人の人間として認められていくとしたら、これも彼にとっては大きな救いであったに違いありません。でもそれだけではないのです。重要なことは、この変化、解放の出来事の中に神様の命のみ業を見ていることです。イエス様に出会い、肉眼だけではなく心の目も開かれていったのです。だから、「主よ、信じます」と言って主のみ前にひざまずいたのではないでしょうか(9:38)。
 肉眼の視力が回復された喜びだけで終わるとしたら、それはその人の個人的な救いの自己満足で終わってしまうかもしれない、あるいは誤ったご利益信仰に陥りかねません。信仰と出来事を通してさらにその背後にある神様の命のみ業に対して、見えない者から見える者へと変えられることによって、私たちは主に結ばれ、創造主である神様と共に生きる幸いを得ることができます。神様は、そのようにして一人ひとりを新たにし、その一人ひとりが部分である社会も再創造しようとされていると思います。それは人間の感覚からすればあまりにも気の遠くなることかもしれません。しかし、主の十字架の死とご復活後今日に至るまでの2000年の間に着々とその救いのみ業はなされてきました。そしてこれからも続けられていくと私は信じています。