2008年3月16日  復活前主日 (A年)

 

司祭 ダニエル 大塚 勝

 イエス様は十字架での受難(私たちの罪を贖い神と人との和解をもたらす)ためにエルサレムに入城されました。その5日後、イスカリオテのユダの手引きで逮捕され、ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとに送られます。それが金曜日の朝です。そして、その日の内に十字架にお架かりになるのです。マタイ福音書27章はその1日の出来事を記しています。
 イエス様は、ユダヤの最高法院でも、ピラトの裁判でも尋問に対して、ほとんどお答えになっていません。目を覆うばかりの暴虐と嘲りがつづきますが、沈黙を守られます。「お前がユダヤ人の王なのか」という、ピラトの軽蔑を含んだ尋問に対して、イエス様は「それはあなたが言っていることです」とお答えになっていますが、それは返答の拒絶であります。それ以後の質問にも全くお答えになっていません。イエス様は、3度の受難予告で明らかにされているように、すべての人の罪を贖うためにご自身に課せられた苦難を受け止めようとなさっていることが、この沈黙からわかります。一方、弟子たちは、つぎつぎ十字架の現場から逃げていきます。総督ポンテオ・ピラトは、自ら決断を下さず、赦免する人物を民衆に選ばせています。扇動された民衆はイエス様を「十字架につけよ」と要求します。それに迎合してその要求を受け入れたピラトは、罪を見出せないお方を十字架につけてしまいました。
 イスカリオテのユダはイエス様を裏切りました。他の弟子たちも最後のところで逃げ出してしまいました。災難が自分に掛かってくるのを恐れたのです。一人ひとりは善良な市民であっただろうと思われる民衆は、イエス様を「十字架につけよ」と叫びました。祭司長や律法学者たちの扇動によって踊らされていました。自己をしっかりと持っていないと扇動にのりやすく、流行にながされやすい、ということは、日本でも、世界でも歴史が明白に語っています。自分の目でしっかりと正しく物事を見抜く目を持っていないと、私たちも「無責任」な民衆になる危険性がありますから心しなければなりません。
 イエス様は、最大限の侮辱を受け、人々から裏切られ、孤立の中で、無抵抗と沈黙の内にすべての人の救いのために十字架の死を迎えられました。私たち人間の罪を贖い、救済しようとされる神様のご計画のなかで、すべてを神様に委ねて自らの使命を全うされたイエス様の姿がここにあります。
 十字架の現場に立ち会い、その様子を目撃していたローマの百人隊長は、十字架上の悲惨な姿のイエス様が「神の子」であると実感したのです。