2008年4月6日  復活節第3主日 (A年)

 

司祭 エリシャ 富田正通

 今日の福音書は、エルサレムからエマオという町に行く2人の弟子にイエス様が途中から同行されることから始まっています。
 弟子たちは、目が遮られていたのでイエス様だとは分からずに、イエスさまと話をしながら歩いています。以前、教区報の「つのぶえ」にわたしたちの復活後の姿について、聖書はいくつかのヒントを与えていると書きましたが、この箇所もその一つです。よく知っているはずのイエス様と一緒に道を歩き、話をしていても気が付かない。しかも、人間として違和感を感じないで話が出来る。そして、イエス様のパンを割くという象徴的な行為でイエス様だと分かるということです。
 天国では、結婚をして家族を作ることはないとイエス様が言っておられますので、普段は誰か分からずに仲間として接していますが、必要に応じてある行動、たぶん、元の家族や親しい人しか分からない特徴的な行動によって、元の記憶がよみがえって、あゝこの人だったと認識できるのでしょう。その時は、特徴的なしぐさが記憶をよみがえらせるので、若いときに別れて、今はこんなに老人になってしまったので相手が分かるだろうかと言う心配はいりません。ハッと分かって、記憶の糸が手繰り寄せられ、その時と同じ姿になるのです。
 この箇所の復活後の姿は、普段の姿と変わらないのですが、他の箇所では、イエス様の姿が光り輝き、モーセやエリヤと話をされる聖書の記述があります。その後に弟子たちに対して、受難と復活が告げられるので、これも、復活後のわたしたちの姿と関係があるでしょう。私は、どちらかと言うと光り輝く姿に変えられたいと、欲張りな希望を持っています。
 ヨハネによる福音書では、光り輝く栄光の座によみがえられたイエス様が、ガリラヤ湖畔で弟子たちの食事のために、炭火をおこして魚を焼いておられます。この聖書の箇所は、聖餐式を連想させる四・五千人の人に食事を与えた奇跡をほうふつとさせ、また、イエス様が受難の時に見捨てた弱い弟子を殉教も辞さない深い信仰心を持った弟子へと再召命に関連していますが、私が感動するのは、栄光の座によみがえられたイエス様が弟子たちの食事を準備すると言う使用人(奴隷)の行動をなさっていることです。
 わたし達のために命を捧げられたイエス様が、復活の後も私たちに仕えておられる姿を通して、天国では互いに仕えあう処であると思います。