2008年4月20日  復活節第5主日 (A年)

 

司祭 ヨシュア 柳原義之

歌に励まされて

どこにでもいつでも いっしょにいてくれる
イエス様は愛の言葉を 語りかけてくれる
どんな時でもあなたを 愛していてくれる
イエス様は愛の御手をもって 支えていてくれる
君だっていつかは知るだろう 汚れた人の心を
その時思い出しておくれ 彼は君を愛してると

誰も信じてくれない時 寂しさに耐えられない時
生きてゆくことに疲れた時 思い出しておくれ彼の言葉
悩みの波に飲み込まれた時 人の言葉に傷ついた時
愛する人を亡くした時  思い出しておくれ彼の言葉
「重い荷物に苦しんでいる人は わたしのもとに来なさい」と
その時から君の人生 喜びにかわるだろう
                                        みゆき「思い出してください」

 私が時々証しをする時、いつもこの歌から始まります。教会に通い始めて1年ほど経ち、18歳、予備校生の私は網膜剥離の疑いのため病院のベッドにいました。安静にして上を向いて寝ているだけの日々が1ヶ月。一度退院して再検査。やはり剥離しているとのことで手術を受け、再び上を向いて寝る生活が始まりました。そんな時、早朝ラジオから流れてくるのがルーテルアワーで、「みゆき」さんの上記の歌を聴きました。当時の眼科病棟は白内障の手術でも、砂袋を左右に置いて安静にしていました。5人部屋で耳だけが情報源となる数日があり、たいへんストレスが溜まる毎日で、この歌にとても救われました。
 手術後、約1ヶ月で退院。あきらめかけた体育の先生になるために次の春、門が開かれました。違う宗教の大学だったので、この町にいるためには自分の信仰を、と洗礼を受け、クラブと休みには好きなキャンプのリーダーをして時が過ぎ、教員になることと、違った立場で人の成長に関わることに迷い、神学校へ。
 慣れない勉強と実習の中で、歌にあるような「汚れた人の心」にも出会い、自分が罪人であることに気付かされ、イエスの十字架の死は私の罪のためであり、復活は再び私が生きるようにしてくださったことに気付かれました。そして、現場に出て20年経つ今も、「汚れた人の心」と「自分の罪深さ」や「赦せない、愛せない」自分の心と闘っているように思います。
 「重い荷物に苦しんでいる人は、わたしのもとに来なさい」この言葉は、その荷を背負って生きている人に向けて発せられます。自分の荷物を負うことを放棄している人には、この言葉は届きません。自分の罪を認め、自分の十字架を背負い、どれだけ罵声を浴びせられようとも、イエスに従う人は「わたしの軽い、くびきを負え」と休息を与えてくださいます。

 病院で「みゆき」さんのこの歌もラジオから流れていました。

主よ、あなたを愛します わたしが遠く離れている間も
わたしを愛し続け待っていてくれた
だから あなたの手を強くにぎりしめ どこまでもついてゆきます

主よ あなたを愛します どんなにつらく泣きたい時にも
あなたは共にいて慰めてくれた
そして もう誰も この深い愛を こわすことはできないでしょう

友よ あなたにも彼を知ってほしい たとえあなたが望みを失った時も
手を伸ばし 彼の愛 受けとめるなら
必ずつかむでしょう 絶えることのない 喜びのある人生を
                                                みゆき「祈り」

 背負いましょう。自分の十字架を。信じましょう。「道」であり「命」であるイエスを。
 今からでも遅くはありません。