2008年4月27日  復活節第6主日 (A年)

 

司祭 ミカエル 藤原健久

あなたに、あげたい。【ヨハネによる福音書15:1−8】

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」分かりやすいたとえである。イエス様を通して、私たちは神様の恵みを受けるのである。けれども大切なのは次の一節である。「私につながっていなさい。私の方からは、つながっているのだ。」(本田哲郎神父訳)このつながりは、私たちが努力して得たものではない。私たちより先に、イエス様の方から手を伸ばしてくださっているのである。しかも、イエス様の方が熱心に、私たちに恵みを与えようとしておられるようだ。「私につながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」神様の裁きである。イエス様は御父の裁きの御手を、時には身を以て遮ってでも、私たちに恵みを与えようとされている。
 真の救いのために私たちが行うのは、ただ心を主に向け、イエス様からの恵みを受け入れるだけである。そこには超人的な努力は必要ない。キリスト教は「苦行」ではなく「易行」である。…ところが、それなのに私たちは救いから遠い。神様の前に素直になることが難しい。神様に対する傲慢さからか、「何でも自分の(人間の)力でできる」と思う思い上がりからか。馴染み深い詩編第23編の最後に、次のように記されている。「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。」私たちが幾たび拒んでも飽くことなく追いかけてくる神様の恵み、どうしてこの恵みを素直に受け入れられないのだろう。
 私の洗礼の前、恩師は便りに次のように記してくれた。「幾度も主の恵みを拒むことなく、受け入れなさい」と。キリストは地上のご生涯において、常に人々に愛と慈しみを与え続けられた。そして十字架の上において、ご自分の命を与えられた。ご復活した主は、人々に永遠の命を与えられる。イエス様は絶えず与え続けておられる。ただ感謝である。