2008年6月8日   聖霊降臨後第4主日 (A年)


司祭 パウロ 北山和民

『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9章13節)

わたしがよろこぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くすささげ物ではない。(ホセア書6章6節)

 本主日のイエスの引用しているホセア書6章6節は、このあとマタイ12章7節で再度引用されていることからみても大変重要な聖句です。 律法を自明のこととして生きるマタイ福音書の共同体にとってこの聖句は大きな課題でありました。いやそれ以上に、イエスの到来そのものの秘密がこの言葉であったのかもしれない。
 ホセア書のこの句も、サムエル記上15章の(利得の戦争をしたサウル王を戒めるサムエルの言葉として)「主が喜ばれるのは…いけにえであろうか。むしろ主の御声に従う事ではないか(15:22)」を引用、ホセアの「神の愛」理解を展開している。
 このいわゆる「祭儀・律法行為」と聖書の言う「愛」は何を意味し、どんな関係があるのか。イエスの振る舞いを想起するときこの宗教行為・律法は否定されたのか、それとも新しい意味を持ったのか?…
本主日の黙想の糧としていただきたい。
 そして、マタイ福音書の共同体が「わたしたちのこの文化、この歴史は神の救済の業の現場として選ばれてしまった。エライコッチャ….あの十字架で殺されたナザレ人イエスの立ち上がる現場は、ナント、ナント『ここ』なのだ!」と、自らの文化を終末的に理解したと同じように、21世紀のわたしたちの教会も、それぞれの現場で生ける神の救いの出来事に巻き込まれていることに深く気づきたいと思う。
 イエスの言葉(福音)に出会うとは、時空を越えて、この救いへの招きにいれられることなのです。この大いなる招きに心を潜めましょう。