2008年6月15日   聖霊降臨後第5主日 (A年)


司祭 バルナバ 小林 聡

神の片思い 〜契約の思い〜 【出エジプト 19:2−8】

「今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。」出エジプト記 19:5

 神と人間の最も古い契約の言葉を目にしている。契約、それは神の人間に対する情熱と言い換えてもいいと思う。
 よく聖書の言葉を色々な文書資料に分類して、聖書を解釈する方法がとられるけれども、今週選ばれている出エジプト記の数節は独立した資料に由来する。そして特にこの5節は契約の中心である。
 この契約の言葉は、イスラエルの民がエジプトを脱出して、シナイの荒野に入り、シナイ山のふもとで宿営し、指導者であるモーセが自ら神の山シナイ山に登って神から与えられた言葉であった。そしてそれはエジプト脱出から49日目のことであった。7日の7週=49日目。これはキリスト教の暦でペンテコステである。つまり聖霊降臨日。イエス復活から50日目である。
 エジプトを脱出した出エジプトが、奴隷であったイスラエルの民の復活体験だとすれば、荒野をさまよう49日間は、イスラエルの民にとって復活節(個々様々な復活体験の期間)であり、シナイ山での神との契約は聖霊降臨なのである。
 キリスト教のこの暦の感覚はユダヤ教から受け継いだものだが、非常に味わい深いと思う。つまり聖書物語は、礼拝上の暦を意識して書かれており、私たちの日常生活の感覚と直結したものとして意識できるように書かれている。頭だけではなく、日常生活で復活や聖霊降臨体験をするのである。
 人は、神に救い出される体験をした後、それで神との関係が終わるのではない。それは神との旅の始まりであり、神に生かされる生活を心と体に刻むのである。神との契約がこのような過程を経て示されているところに注目したい。契約とは神の人間に対する情熱だと言った。確かに契約は対等な関係を前提にし、双方の合意があってなされるのが普通である。しかし巷の契約でもそうだが、一方の思いが強かったり、折角締結している契約内容も、微妙な受け止め方の違いが双方に出てくることがしばしばである。神と人間の契約も例外ではない。しかし大事なことは、神の情熱がイスラエルの民に注がれているということである。もし契約を守るならばあなたがたは私の宝となると神は言う。これは相手の主体性を最大限に尊重した言葉であり、神の思いとしては、守る守らないを超えてすでにイスラエルの民は神の宝なのである。そうでなければ、エジプトで奴隷であったイスラエルの民の叫びに神は耳を傾けたりはしない。
 この最も古い契約の言葉を口にする時、神の私たちへの情熱を感じてみたい。時に人は神の情熱を感じることなく、喉元過ぎれば熱さ忘れるが如く、神の前を素通りしてしまう。旧約聖書に登場する神は情熱の神であると同時に、嫉妬の神でもある。その思いは片思いと言ってもいいのかもしれない。いつも人々を心配し、自立をうながし、互いに愛し合うことを強く求める神の思いは熱い。人は、この神の情熱によって生きる。人はこの神の情熱によって養われる。人はこの神の情熱に触れる時、自らも情熱を持って生きる者となる。しかしそれは今すぐに起こるものではない。イスラエルの民が経験しているように、神と荒野を旅する中で次第に心と体が養われてくるのである。
 今日私たちが暮らすこの世界はイスラエルの民が経験したような荒野かもしれない。私たちはこの荒野で神の情熱の言葉を聞く。私たちは神の熱い情熱をどれだけ感じることが出来るか、一生のテーマかもしれない。神と共に旅を続けよう。