2008年8月17日   聖霊降臨後第14主日 (A年)


司祭 テモテ 宮嶋 眞

「違う人との出会いによって変えられ、、、」

 毎年、8月のこの時期は、広島、長崎への原爆投下の出来事、また、敗戦の出来事を心に深く刻みながら、「二度と戦争をしない、暴力を国際紛争の解決手段に用いない」という誓いを新たにするときです。本日の聖書は、そのような平和への道筋に光を投げかけてくれるようにも思います。
 イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれました。この地方はイエスの生涯の舞台となったいわゆるイスラエル地方からはずれた、地中海沿岸地域でした。聖書で言う「異邦人(非ユダヤ人)」の地域に入っていました。そこで、この地に生れたある女からイエスは、娘の病気を治してくださいと懇願されます。
 イエスは、@はじめ何もお答えになりません。しつこく願われると、A「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」、また、B「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない」と三度拒否されます。@は無視です。Aは、イエスがイスラエル人にしか遣わされていないということでしょうし、Bは、子ども(イスラエル人)のパン(神からの恵み)を子犬(異邦人)にはあげられないと言っています。当時、犬は余り良いイメージで語られてはいませんから、これは異邦人に対する差別発言だとすら思えます。
 しかし、この女性は、このイエスの発言を受けて、「しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」と、自分たちも神さまの恵みを受けることはできるのではないかと反論します。この女の発言に、イエスは態度を変えて、「あなたの信仰は立派だと」言い、娘の病気をいやされたということです。
 イエスでさえ、始めはイスラエル人中心の救いの枠組みにとらわれていたのではないだろうか。しかし、イエスは、苦しみ悩む人びとと出会う中で、その苦しんでいる人もイエスを信じるようになったという現実に出会ったときに、自分の偏狭さに気づき、変わったということでしょうか。この物語は、このマタイ福音書を生み出していった初代教会の人びとが、イエスを神の子として信仰する異邦人に出会う中で、「神の救いのメッセージは、すべての国籍、民族を越えて広がるのだ」ということを確認していったことを表しているようにも思えます。
 今、平和の祭典といわれる、オリンピックが開かれ、毎日たくさんの報道がなされていますが、この祭典が本当に平和を看板とするなら、メダルを幾つ取ったというような偏狭な自国中心的な結果の捉え方でない報道をして欲しいと願いたい。国籍・民族の違う人びとが出会う中で、どのような痛み、苦しみ、願いをそれぞれの人びとが持っているのかに、もっと耳を傾けていくような、そしてそれを聞いて、自分たちの態度が変わることのできるような出会いや報道がなされないものかと思う。
 イエスのこの小さな物語の中にも、違う人との出会いの中で、どのように互いを理解し、変えられ、信頼を築いていくことができるかという課題が示されているように思う。