2008年9月7日   聖霊降臨後第17主日 (A年)


司祭 ヨハネ 石塚秀司

「罪を犯したなら・・・・」【マタイによる福音書18:15−20】

 マタイによる福音書18章は、教会の交わりの在り方についてイエス様が直接語っておられる数少ない箇所の一つです。しかしその内容は、たとえば、組織はこのようにしなさいとか、教会の活動や伝道の在り方についてではなく、ここではただ一つ罪の問題を取り上げておられます。
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)。誰かが罪を犯したら、すぐにその罪を公にして糾弾することでもない、噂を広めて困らせてやることでもない、まずその人の所に行って二人だけで忠告しなさい。もしそれでダメならば他に一人か二人一緒に連れて行きなさい。それでもダメな場合には教会に申し出なさい、と言われます。ここで「忠告する」と訳されている言葉にはもともと「光にさらす」という意味があるそうです。神様の光にさらし、照らし出して罪の事実を明らかにする、つまり認識して、そして神様の思いへと心を向けていくということでしょうか。このように教会は、罪の問題をないがしろにすることなく丁寧に対処すべきことを語っておられます。
 このみ言葉はどんな思いから語られているのでしょうか。今日の福音書のすぐ前、18章の10節から14節には「迷い出た羊のたとえ」が記されています。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。そして主イエスは言われます。「そのように、こられの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父のみ心ではない」。そして、これに続いてきょうの福音書のみ言葉が語られています。この流れは決して偶然ではないと思います。小さい者が一人でも滅びることはみ心ではない、滅びにつながる罪から立ち帰って生きること、生かされること、それが神様のみ心だということでしょう。同じ思いをもって教会の罪の問題にも対処しなさいということだと思います。
 「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17節)。二人だけで、あるいは二人・三人の証人のいるところで忠告しても、さらに教会に申し出てもダメな時には異邦人・徴税人と同様にしなさいとはどういうことでしょうか。当時のユダヤ人たちは、同じ神様を信じないユダヤ人以外の人たちを異邦人として、また同族を騙して私腹を肥やしている徴税人を罪人として排斥していました。交わることを禁じていたのです。同じようにすることだと解釈することもできます。しかし、イエス様も同じ考え方に立っておられたでしょうか。違うと思います。例えばザアカイですが、徴税人であるがゆえに人々から無視されていたザアカイに主は声を掛け、彼の家に行き食事を共にされました。そしてザアカイの生き方は180度変えられたのです。また活動し福音を伝えたのは異邦人の世界とされていたガリラヤ地方でした。つまり異邦人も見捨てず、かかわり生かされたのです。今も、交わりや共同体に生じた罪の問題、災いや病を、赦し、癒し、回復へと導いてくださるのは主ご自身です。そのみ業を真摯に祈り求めていくのです。ここに立つのが私たちの信仰です。
 あの人この人だけではなく、私自身も百匹の羊の中の迷える一匹に他なりません。迷い出て的外れな生き方をしている罪人です。私自身も罪ゆえに忠告を受けなければならない存在であることを忘れてはならないでしょう。この罪からの救いへと導くために、神様の命へと導くためにイエス様は来られました。そして、あの十字架の光の中に私ども人間の罪をさらし出し、立ち帰るべき道、復活の命に至る道を示してくださいました。信仰によって私たちはそこに立つことができます。