2008年10月12日   聖霊降臨後第22主日 (A年)


司祭 エッサイ 矢萩新一

感謝という礼服【マタイによる福音書22:1−14】

 ある幼稚園の運動会で、さすがキリスト教保育だなぁと思わされる場面がありました。それは、年少組みの玉入れの時でした。赤白に分かれて、2回玉入れをしたのですが、2回とも入った玉の数が偶然同じでした。3回目に勝負を付けるのだろうと見ていたら、「2回とも赤組も白組も勝ち!」という結果発表で、最後に転がっている玉を箱に片づける競争が始まり、これまた同じぐらいのスピードでした。そういえば、得点版も無く、かけっこも1位2位3位と順番に並ぶ場所も無かったことに気付きました。勝敗を付けるということよりも、みんながよく頑張ったというところに力点が置かれている運動会は、本当にすがすがしいものでした。
 さて、教会の信仰もどうでしょう?どれだけ深いか浅いか、洗礼・堅信を受けて何年経つか、ということで判断されるのでしょうか。決してそうではありません。洗礼を受けて間もない方が一生懸命祈る姿を見て、自分の信仰を見つめ直す時もあるでしょうし、ベテランの信徒と呼ばれることに心地よさを感じてしまうこともあるでしょう。大切なのは、今の自分がどう生きようとしているか、神様に感謝できているかどうかだということを、今日の福音書から学びたいと思います。
 今日の福音書は、天の国についてイエスが「婚宴のたとえ」を用いて語っています。婚宴という場面を想像してみますと、そこにはおいしい食事が並び、一つの新しい家族が誕生するという喜びが満ち溢れています。一国の王が主催する、王子の婚宴ならば、相当豪勢で盛大なものであったでしょう。しかし、あらかじめ招かれていた人々はまったく来ようとはしませんでした。そこで王は、再び家来を遣わして招いておいた人々を誘いますが、彼らは、婚宴よりも畑に出ることや商売に出ることなど、自分の都合を優先させてしまいます。仕方なく王は、町の広場に家来を遣わし、見かけた人は誰でも、たとえそれが罪人であろうと、善人であろうと婚宴に招きました。しかしその中で一人、婚宴の礼服を着ていない者が外の暗闇に放り出されました。
 今日の福音書は天の国を婚宴にたとえた物語でありますが、最初に招かれた人々は、やがてイエスを十字架にかけてしまう祭司長や長老たちのことをたとえています。彼らは神さまの救いの招きを無視して、王子であるイエスの婚宴に招かれていることの真意を理解できないでいました。また、大通りで声をかけられ、婚宴に招かれた客は、私たちをも含むすべての人々のことです。招かれた人は、婚宴の主催者が誰で、どのような心構えで参列すれば良いのかをわきまえなくてはなりません。私たちも、誰かの結婚式に招かれると、着ていく服や、お祝いのことで気遣いをします。しかし、このたとえの中で、婚宴の礼服を着るということは、何かきれいな衣服をまとって正装する、高価なお祝いを贈るということを指してはいません。むしろ、自分を覆い隠す為に重ね着している服を脱いで、自分自身を裸にし、王子の婚宴に招かれていることに「感謝する心」をまとうことであります。いくら見栄えのいいスーツを着込んでいても、その中のシャツがしわくちゃで、白くなければ、またネクタイをしていなければ、様にならないのと同じことです。
 私たちの教会も、この王子の婚宴のようなものです。教会には、喜び、赦し、愛と平和という招待状があって、罪人であろうと、善人であろうと誰でもが招かれています。招かれた私たちにとって大切なのは、主催者が誰であるかをわきまえ、感謝という礼服を着ているかどうかであります。
 私たちが毎主日ささげる聖餐式の語源は、「ユーカリスト」というギリシャ語ですが、この意味は「感謝・賛美」であります。今日の使徒書でも「何事につけ感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい」とパウロが語るように、イエスと共に食卓を囲む私たちは、この感謝の心を忘れてはなりません。
 教会での信仰生活、また、日常の生活の中においても、過去の善行に固執することや人の過ちをとがめることよりも、この感謝の礼服を着ているかどうかが問われているのではないでしょうか。