2008年10月19日   聖霊降臨後第23主日 (A年)

 

司祭 ヨシュア 柳原義之

「神のものは・・・」

 舞鶴に来て10年の月日が経ちました。牧会の現場に遣わされて20年。この道に進もうと考えた日から25年が経ったことになります。
 過日、この夏にお世話をさせていただいた幼稚園関係の研修のおりに撮った写真をいただきとても驚きました。2泊3日の宿泊研修の最終日に共に汗を流したスタッフ2名と一緒に写したものですが、2名の笑顔とは対照的に自分がまったく笑っていないのです。あと少しで研修が終わり、長い期間かけて準備したものが一応の完成を見る、そんな笑顔になっているはずでしたが、目も口も、笑顔には程遠く、硬く表情の無いものでした。
 聖書に初めて「笑う」という単語が出てくるのは、創世記の17章の神様とアブラハムとの会話の場面です。しかしその笑いは楽しんで笑ったのではなく、高齢のアブラハムに子孫ができると言う神様に対して、「そんなことがあるものか」という皮肉な笑いでした。そんなアブラハムの心を見透かしておられたのか、神様は生まれる子にイサク(彼は笑う)という名をつけるようにと言われます。次の章でイサク誕生の予言を伝える3人の人に対しては、サラが同様に皮肉な笑いを「ひそかに」浮かべます。そんなサラに神様は「なぜ」と詰問されます。サラは打ち消しますが、神様は「いや、あなたは確かに笑った」とサラの不信心をとがめられました。
 不思議なことに、このイサク誕生の物語はソドムとゴモラの話、アビメレクの話で中断されます。子どもの誕生という皆が笑顔になるそんな出来事の前に置かれておるのは、悲しい出来事でした。
 再び21章からはイサク誕生の物語に変わります。神様の言葉どおり次の年にアブラハムとサラはイサクをその腕に抱くのです。そしてサラは「神はわたしに笑いをお与えになった。聞くものは皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」と。
 改めて聖書を見て、「笑い」は神様が与えてくださったのだと気づきます。でも聖書の中にはあまり良いイメージで「笑い」が出てきません。イスラエルの背きのゆえに「わらいぐさとなり」など、心から楽しくて笑う、という箇所は出てきません。詩篇の126編には捕囚の民がイスラエルへの帰還の報を聞いて「そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう」と記されています。「笑い」は「喜び」を伴うものであると、当たり前のことに気付かされます。
 そうなると、今笑えていない自分には喜びがない、のだということになります。しかし、意気揚々(であったかどうかは怪しいところですが)と、若いエネルギーに満ちた「あの頃」には苦しい現実の中にありながらも「喜び」があり「笑い」があったように記憶しますが、この数年は笑えない、というより「笑ってはいけない」と自分の心を縛っているように思います。何故なら大きな過ちがあり、そのことで傷つき心痛めている人がおり、そのことの解決が進まないからです。そんなことをよそにどうして心からの「笑い」が与えられるでしょうか。
 そのようなジレンマの中でイエス様はこう教えてくださっています。「今泣いている人々は幸いである。あなた方は笑うようになる」(ルカ6:21)と。また、「すべてが空しい」と黙想したコヘレトは「何事にも時」があって「笑う時」があると教えてくれます。
 主が与え、主がとられる。「笑い」もあなたが与えてくださったものです。心からの「笑い」はあなたが与えてくださらなければ笑うことはできません。神様はわたしの心から今しばらく「笑い」を取り去られました。傷つき、心を痛めている人が癒される時まで。主よ、どうか心から笑顔になれる日をお与えください。
 神のものは神に・・・