2008年11月2日   聖霊降臨後第25主日 (A年)

 

司祭 ミカエル 藤原健久

生き様【マタイによる福音書23:1−12】

 イエス様は言われた。「律法学者たちやファリサイ派の人々…の行いは見ならってはならない。言うだけで、実行しないからである。」大変納得できる教えだ。私たちの社会では「不言実行」という言葉が大切にされている。たとえ立派なことを言わなくても、良いことを行動で示すのが良い、というものだ。私たちは、口先の言葉だけを信じるのではない。その言葉を発した人の、生き様そのものに感銘を受け、その人を信頼するのである。
 そのことを痛感していたのは、偉大な福音宣教者パウロである。彼は神様のみ言葉が正しく人々に伝わるように、自らの生き様を神様のみ言葉に合わせようとした。貧しい生活を送り、迫害を受けても暴力で返さず、自らの命を何度も捨てそうになりながら、神様と人々を愛した。
 神様のみ言葉を信じた者は、神様のみ言葉を宣べ伝える義務を持つ。けれども私たちはパウロのような立派な生き様を送っていない。どうしようか。私はかつて、自分の家族に言われた言葉を思い出す。「お前は本当にキリスト教か。」この言葉は、藤原が信じているキリスト教は、藤原よりももっと立派なもののはずだ、という思いから発せられている。私は、結果的に、私のアホな行動を通して、キリスト教の立派さを証ししたのである(ほめられたものではないが)。
 私たちの内には既に神様のみ言葉は蒔かれている。そしてみ言葉は、自ら働き、愛の光を輝きだしておられる。後は、私たちの生き方を、少しずつでも、み言葉に合わせてゆくだけである。私たちが愛の道を歩み出すとき、私たちはみ言葉を通して神さまの恵みを豊かに受ける。
 神様のみ言葉が、そのまま生き様となったのが、イエス様である。イエス様の十字架と復活は、パウロの生き様を変え、私たちの生き様を変え、全ての人に救いを与える。