2008年12月7日   降臨節第2主日 (B年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。(マルコによる福音書 1:2−4)

 今日の福音書には洗礼者ヨハネが登場してきます。彼は何をしたかといいますと、人々に罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え、ヨルダン川で洗礼を授けることでした。それはまた、旧約聖書の預言者イザヤの書に書かれている「荒れ野で叫ぶ者の声」として、主が来られる道をまっすぐに整える働きでもあったことを伝えています。
 「悔い改め」と訳されているもともとのギリシャ語は「自分の思いを変える」ことを意味し、その元となるヘブライ語では「転回する、回転する」という意味を持っているといいます。私たちが日常的に使っている「方針を180度転回する」と同じイメージでしょうか。つまりキリスト教信仰における悔い改めとは、自分の言動を振り返ってただ反省し後悔するだけではなくて、神様との関係において、今まで自分の思いや願望や欲望にばかり向いていた心を方向転回して神様の方に向け直すという意味があります。
 私たちは、日頃の人間関係においてもそうですが、神様との関係においても、無関心であったり、正しく聞こうとしなかったり、信じているつもりでいながら疑ったりして大きな隔たりを作り、その結果自己中心の生き方になっていることがしょっちゅうですが、その私どもの心を神様の方へと向き直し隔たりを無くすための中保者として、イエス・キリストは人間の世界に来てくださいました。それが最初のクリスマスです。そして今も信じる人々の心に来てくださって神様の生きたみ言葉としてみ業をなさってくださいます。その主が来られる道を整えるために洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
 私たちの住むこの社会は、心を非常に痛めるような、またある種の危機感をさえ抱かざるを得ないような出来事が今いかに多いことでしょうか。その中でも、子どもが身勝手な大人の犠牲になるという事件が頻発していることを思うと心が痛みます。人々の心の歪みや社会の混乱のしわ寄せは、結局一番弱いところにすなわち子どもに押し寄せていくと言う言葉をどこかで聞いたことがありますが、今そうした現象がじわりじわりと広がりつつあるのかもしれません。
 今日本の社会はどっちの方向に向かっているのでしょうか。もし、信じることが失われ、愛することが失われ、希望が失われた社会、弱い者を犠牲にする社会、自分の目先の願望や欲望を満たすことに偏りすぎた社会であるとしたら、それは明らかに神様のみ心とは反対の方向に向かっているのであり、それは聖書の言うところの荒れ野に他なりません。その荒れ野で、かつて洗礼者ヨハネがそうであったように、今この時代に主が来られる道を整える尊い働きを担う者として私たちキリスト教会は召されているのだと思います。今年のクリスマスもたくさんの日本の人々の心にイエス・キリストが来てくださるように、お祈りいたします。