2008年12月14日   降臨節第3主日 (B年)

 

司祭 パウロ 北山和民

花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だからわたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(ヨハネ福音書3章29−30節)

 降誕日まであと10日余りのこの主日、ヨハネ福音書から、教会の宣教について、思いを潜めたい。
ヨハネ福音書は他の共観福音書と比べ、より迫害が明確になった時代に綴られてた。(詳しくは聖書辞典で)。ユダヤ教世界にとっても危機感に満ち、キリストを信じる共同体は(誤解を恐れず表現するなら)現代で言うカルトやテロリスト組織並みに迫害された時代にこの福音書は洗礼者ヨハネとイエスとの関係を通して、落ち着きをもって、教会の姿を模索した。 さて、現代の教会には「迫害」などあるのだろうか。
 降誕日を待つ教会は、ヨハネ福音書に聞くとき深く振返らねばならない。わたし達の教会は血を流すほどの抵抗や、洗礼者ヨハネのような証を、社会の中でどう証するべきだろうか。そして、イエスを宣べ伝える共同体と言いながら肝心のイエスさまを見失ってはいないだろうか。
 冒頭の「洗礼者ヨハネの証」とは「教会の証」である。言うまでもなく、この花婿はイエスで介添え人はヨハネ(教会)である。ユダヤ文化では、待っているのは花嫁であり、花婿が到着したとき介添え人は式場から退場する。しかし「結婚式」という天国が実現する喜びを見届けてから退場する。
 「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉には悲壮感は全くない。あるのはこの上ない喜び、招待客は評価してくれない(これがすばらしい)天国の喜びである。 己(おのれ)を消すことを日本では「空(くう)」というが、わたし達の教会は、「拝金・自己中」の社会にあって、「空になる」こと、ただ祈っている「役立たず」な教会になることに耐えられなくなってはいないだろうか。これは十分な「迫害」である。
 一方で 「わたしの平和は、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14:27)を思い起こしましょう。 同じく60年前マハトマ・ガンジー一人が「断食」によって平和を一時実現したようなパワーを思い出しましょう。
 クリスマスの祈りと献金の持つ「空のパワー」を世に知らせ、驚かせるのがわたし達の教会の使命です。