2009年2月8日   顕現後第5主日 (B年)

 

執事 アグネス 三浦恵子

 四福音書にありますイエスのこの世でのご生涯は、福音書が書かれた時代背景の違いと、福音記者自身の書き記し伝えていこうとする中心がどこにあるかによって読み手に与える印象が違ってきます。例えば、ルカによる福音書では、イエスの誕生物語が劇画を見るように華やかに描かれていますし、マタイによる福音書は、イエスの系図が丁寧に書かれアブラハム、ダビデの子孫であることを示し、イエスが旧約聖書からの成就として描かれています。マルコによる福音書は、イエスの系図や誕生物語に触れることなく「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1章1節)の1文によって、王なるキリストが救い主としてこの世に遣わされたという主題を冒頭から打ち出しています。ですから、その神の子イエスの「わたしについて来なさい。」という声かけは他の福音書より力強い召命の言葉として読む者の心にも響きます。イエスは早速ガリラヤへ行き、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)と、福音の宣教活動を始められました。その宣言も、神の聖霊と愛を受け天使が仕える権能者であるイエスの姿が強調されているという印象を受けます。
 今日のマルコによる福音書の箇所では、多くの病人を癒され悪霊を追い出したあと、イエスは「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」(34節)とあります。重い皮膚病の人を治されたあとも「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)と厳しく注意しています。このイエスの悪霊追放や治癒行為について「他言」することを禁じる振る舞いを「沈黙命令」と呼んでいます。イエスは、「神の聖者」(24節)であるという人々からの評判より、イエスの使命は、自ら十字架から降りることをしない、神のご意向である「苦難と死」にあることを伝えようとするマルコ福音記者の意図をうかがい知ることができます。多くの病気を癒されるイエスの慈しみの行為によっても、「悔い改める」ことに抵抗する頑なな民であることを神は見抜かれているということをマルコ福音記者は知っていたのでしょう。
 イエスの呼びかける「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という宣言で使われている神の国とは、神が支配される正義と真理の実現される世界のことです。今、世界のどこに、周囲のどこに神の正義の現実を見出すことができるでしょうか。人は変わることを望まない。悔い改める必要を認めたくないというのが人間の本性のようです。悪霊追放や治癒行為は、権能者イエスの顕現であることはだれが見ても明らかな性格のものだったでしょう。しかし、イエスに敵対する権力者たちは、「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか」(11章27節)と言い寄ります。私たちの社会でも、明らかな正義と真理に向かう道筋を通そうとする時、権力者と自認している者が詰め寄って来るのです。
 本日の主日の特祷は、「主よ、あなたに呼び求める民を慈しみ、その祈りをお受けください。どうか、行うべきことを悟る知恵と、それを忠実に成し遂げる恵みと力をお与えください。主イエス・キリストによってお願いいたします。」とあります。主イエス・キリストが、全ての人々の「救い主」であるということを知った私たちは、何をなすべきかという知恵とそれを行なう力をお与えくださいと祈るように求められているのです。