2009年4月19日   復活節第2主日 (B年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

「平和がありますように」【ヨハネによる福音書20:19−31】

 キリスト教において最も大切な、信仰の基を据える復活日から1週間がたちました。およそ2000年前のこの日、ユダヤ教キリスト派の人々の間で、大きな出来事がありました。ヨハネによる福音書からその大事件を見ていきましょう。
 イエスが十字架に付けられて死に、復活されたのは日曜日でした。その日の朝、イエスは墓の外で泣いていたマグダラのマリアに現れ、同夕、今度はユダヤ人たちを恐れて身を隠していた弟子たちの間に現れました。家の戸には鍵をかけてあったにもかかわらず、イエスは来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和がありますように」と言われます。まさか死んだはずの人間が復活するはずがないし、鍵のかかった家に入って来るなんて!と、弟子たちは信じ難い体験をしました。常識では考えられない出来事が、4つの福音書すべてに記されているということは、弟子たちにとって真実で、よほど重要な出来事であったということが分かります。
 しかし、実際にその場でイエスと出会う体験をしていないトマスが、なかなか信じられないでいます。トマスの抱いた疑問は、人間であればだれしもが抱くものです。他の弟子たちは、復活のイエスに出会い、平和の挨拶を受け、手の釘の跡とわき腹の槍の跡を実際に見せられ、信ぜずにはいられませんでした。死んだはずのイエスが、自分たちの目の前に現われて、「シャローム・平和があるように」と挨拶をし、「聖霊をもって自分たちを遣わす」と言われました。弟子たちは、その興奮をすぐ仲間のトマスに伝えました。そして次の週の日曜日、仲間たちの言うことが信じられないでいたトマスにも、復活のイエスは姿を現わし、「シャローム・平和があるように」と挨拶をされ、たちまちトマスは信じる者へと変えられました。
 私たちの信仰の歩みも、弟子たちのこのやり取りと同じ様なことを繰り返しています。自分たちより先にイエスに出合い、福音を聞いた信仰の先輩たちが先ず信じる者となり、その興奮を聞かされた私たちも、はじめこそなかなか信じませんでしたが、復活のイエスに呼び止められ、教会の交わりに招き入れられて信じる者とされました。そしてイエスの語る「平和」のメッセージを、毎週の礼拝の中で、聖書や説教、親しい交わりを通して聴いていきます。かつて他の弟子たちが先に復活のイエスに出会い、後にトマスが同じように信じる者とされたという物語を、私たちも現在の教会の交わりの中で再現しています。
 イエスは「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と、弟子たちを派遣されます。そして「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される」と言われました。私たち人間には、罪を赦す権限はありません。しかし、復活のイエスによって聖霊を受けた者は、すでに赦され神さまに愛されている者として、互いに認め合うことによって、神さまの赦しにつながっています。この神さまの赦しの言葉を実現する為に、私たちは「イエスの平和の福音」を伝える使命を受けているのです。
 私たちが毎主日、感謝の礼拝をささげ、「私の主、私の神よ」と告白する時、よみがえりのイエスは私たちの内に生き、「あなたがたに平和がありますように」励まし、聖霊の息を吹きかけて新しく生かして下さっています。自らの弱さに勇気を与えてくれる力、互いに赦しあい、平和を実現する者へと造りかえられて行く出来事、「復活」とはそういう現実ではないでしょうか。
 この人こそと思っていた指導者を失い、部屋の扉の鍵をかけ、心の戸に鍵をかけて意気消沈しいた弟子たちが体験した奇跡の出来事は、復活のイエスに赦された者として「平和の福音」を生きる者へと変えられて行ったという、最初キリスト者の信仰を、私たちに伝えてくれています。
 イエスのご復活は、この世的な蘇生ということではありません。よみがえりの命とやがて死にゆく命は、全く次元の異なる命です。別の命には別の体があります。復活の新しい命、別の体を持ったイエスは、閉じた戸を通り抜けることも、望む時に人の目に見ることも、人の手で触れることの出来る体ともなりえます。刺し貫かれた傷は、かつて弟子たちが寝食を共にした頃と同じイエスの体に刻まれたものであり、希望を与えてくれる新しい命に復活されたイエスです。この信頼と、人知を超えた交わりを私たちは現在も受け継いでいます。
 洗礼を受け、イエスに従う者として歩む私たちが生きて行くその目的は、ヨハネによる福音書が書かれた目的と同じく、「イエスは神の子、メシアであると信じ、イエスの名によって命を受ける為」です。このイエスの復活による、すばらしい「平和」のメッセージは、いつの時代においても「良い知らせ=グッドニュース=福音」です。ことに戦争や景気の低迷によって、悲しい事件が続く現代社会において、キリスト者が最も強く語り、受け継いでいかなければならないメッセージであると思います。
 その意味において、毎週の礼拝の中で私たちが交わしている「平和の挨拶」は、重要な意味を持ってくるのだと信じています。私たちがいろんな傷を持った手と手で交わし合う握手から、平和の実現が始まっていくのだと思います。
 「主の平和がありますように」