2009年5月10日   復活節第5主日 (B年)

 

執事 マタイ 出口 創

『愛情物語』

 中島みゆきの1997年の歌に、『愛情物語』という歌があります。ラブソングにありがちなオーソドックスなタイトルとは裏腹に、『あなた』を愛しているが故に、そして『あなた』が私を愛してくれているその愛に報いるために、『あなた』から離れていく心情を歌った激しい歌です。
        『突然の裏切りと見えるしかなくても
        もう逢わない もう呼ばない あなたと他人になるわ
        たとえ離れても心は変わらない
        せつなさに疲れて息がとまっても』

 キリスト教は『愛の教え』とか『愛の宗教』と言われることがありますが、日本語で『愛』といわれてパッとイメージするのは、もしかしたら、新婚さんか付き合い始めた若い恋人同士のような、ベタベタ、イチャイチャした、そんなイメージなのかもしれません。でもキリスト教で言う『愛』というのは、そのようなイメージよりも、『愛情物語』に描かれているような、表面には現れにくくて、愛している相手にもなかなか伝わらなかったり、理解してもらえないような性質のものなのではないでしょうか。「神は愛です」と聖書に記されていても、私たちには、神様が私たちを愛してくださっていることが、なかなか伝わらなかったり理解できないでいることが多いかもしれません。それでも私たちの側の受け取り方に関係なく、それにも関わらず神様は私たちを一人一人を十分に愛してくださっている。そのことを信じている人たちの事を、『キリスト者』と言うのだろうと思います。

 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネによる福音書14章16節)。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(同18節)。ヨハネによる福音書が記す最後の晩餐の席で、イエス様は弟子達にこのように力強く約束します。十字架で死に、復活して後、天に昇るその後の事の約束です。復活してからそのままずっと弟子たちと一緒にいれば、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」という約束を十全に果たせるのに、イエス様は復活後に弟子達としばらく一緒に過ごしてから天に昇られました。別の弁護者に交代するために。そしてそれは、イエス様と直に接した弟子たちだけでなく、2000年後の現代の弟子たち、他ならない私たちとも一緒にいるために。神様の愛を全うするために、遭えて離れる。

 もしかしたら『あなた』は今、神様に愛されているという実感がないかもしれません。人から裏切られ通しで、「神も仏もあるもんか!」と腹の底から周囲の全てを憎々しく思っているかもしれません。「神が私を愛しているなら、証拠を見せろ」と思うかもしれません。それでも神様は『あなた』を愛しています。『あなた』はこの神様の愛を、信じますか?