2009年6月28日  聖霊降臨後第4主日 (B年)


司祭 パウロ 北山和民

『この国から貧しいものがいなくなる事はないであろう。だからこそあなたに命ずる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しいものに手を大きく開きなさい』(申命記15章11節)

 聖霊降臨後のわたし達はどんな態度で礼拝しているのでしょうか。
 みことばを聞いたり、代祷のときの基本姿勢は、いつも三つの事に関心を持ち考えているのではないでしょうか。つまり1、自分の事、2.世の中のこと、3、教会の宣教方策の事。この3つの関心が有機的にひとつになり「主への信頼」を新たにする礼拝になるとき、教会は健全になるのだと思います。
 先週の福音では、世の荒波の中で、『なぜ怖がるか! まだ信じないのか!』というみことばを聞き、これが教会の姿そのものであると教えられました。
 続いて今週は冒頭の言葉を通して、世の荒波への関心と、わたし達の教会の宣教について、思いを新しくされたいと思います。
 今週の旧約と使徒書の主題は「分かち合い」、経済学用語で言うところの「分配システム」についてです。
 現代は石油、穀物、水などが一部のメジャーによって支配され、分配の偏りに起因する悲劇が地球を取巻いています。そしてさらに深い所には、わたし達の「自分さえよければ」という魂の問題が横たわっていることに気づきたいと思います。この(「闇」と言うべきか)世の「荒波」と言うべき状態に無関心ではおられないどころか、「他の船と同様に」巻き込まれ水浸しになるように招かれているのがわたし達の教会なのです。
 そして、にもかかわらず、同時に主イエスの言葉・聖霊により平和への道を歩めと招かれていることを忘れてはならないのです。
 「この国から貧困はなくならないであろう」と申命記は語り、「この世から愛する子を失う悲しさはなくならないであろう」と今日の福音書は語ります。 にもかかわらず、いや、だからこそ「十字架に殺された主」の命(十字架の神学をすること)が「分かち合いの礼拝を続ける希望」を与えてくれるのです。
 「平和はまずひとりの心に平和の砦を築く事だ」と言われるのと同じように、貧困・飢餓の打破への道は、わたし達の心に「受けるより、与えるほうが幸い」という主の言葉が(誤解を恐れず言うなら)「念仏」のように生きる事ではないでしょうか。 聖餐式が現す「分かち合いの礼拝」を荒波の中で行ない続ける事ではないでしょうか。  以上