2009年7月5日  聖霊降臨後第5主日 (B年)


司祭 バルナバ 小林 聡

預言者エゼキエル 自分の足で立つことへの招き【エゼキエル書2:1−7】

 「自立」という言葉があります。これは「自給」という言葉と対になって理解されることが多い言葉です。しかし聖書では必ずしも「自給」は「自立」の条件とはなっていません。
 預言者エゼキエルが、神に召された時、神の言葉は鮮烈でありました。
 「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」(2:1)。
 続く聖書の言葉は、「自立」というものの本質を語っています。
 「彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。」(2:2)。
 神の霊こそが、わたしを自分の足で立たせる。自分の力で立つのではないのです。
 預言者エゼキエルの召命の場面である2章1節から10節には、身の引き締まる言葉が綴られています。「あなたはわたしの言葉を語らなければならない」(7)。
 それは神に逆らった同胞であるイスラエルの民に向かって語らねばならないということでありました。たとえ「あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない」(6)。語りたくない人々に語らなければならないその命令は、エゼキエルを深い苦悩の底へと追いやったことでしょう。そのエゼキエルに神は語ります。
 「口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(8)。
 それは巻物でした。そこには表にも裏にも文字が記されていました。それは「哀歌と、呻きと、嘆き」(10)の言葉だったといいます。それを食べろと差し出す神の手はエゼキエルの口元に迫ります。エゼキエルが悶え、苦しみ、幻視、幻聴状態に陥り、普通の状態ではない姿で神の言葉を聞いていたエゼキエルの姿を思い浮かべるにつれ、エゼキエルがいかに現実の民の姿に絶望し、語るべき責任の重さの中で苦しんでいたかが想像されます。
 エゼキエルが食べ、預言者として奮い立たされていたものは、民の嘆きそのものでした。しかもそれは歴史を貫く人々のうめきでした。
 「自立」とは、神の霊が注がれ、立ち上がらされ、民の嘆きを食物とし、語ることを言うのです。
 現代の世界において、この「自立」は多くのことを私たちに問いかけます。
 ・自分で立つことが出来ていると思っている人間のおごり高ぶりを。
 ・私たちを生かすのは、物品ではなくそこに繰り広げられている人間の生きた物語であることを。
 ・処世術がもたらす排他性を突き破るような言葉を発しているのかを
 ・そして、あなたは命の息吹を注いでくださる他者を本当に求めていますかと。
 エゼキエルの召命物語は、私たちの「自立」に対する問いかけであり、真の「自立」への招きなのです。