2009年7月19日  聖霊降臨後第7主日 (B年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

突然、パンと魚が目の前に【マルコによる福音書6章30―44】

 何かの会のお世話をするときに「誰に、どこまでの接待をしなければならないか」でいつも頭を悩ませます。お客さんに対して座る順番や食事や交通費など、主催者としてどこまですべきだろうかと考え出すとなかなか線引きが難しいものです。
 イエス様の周りにはたくさんの人々が押し寄せてきました。時間がたてば当然、群衆の食事のことが心配になります。弟子たちはイエス様に「めいめいに食べ物を買いに行くように解散させてください」と申し出ました。大勢の人々に食事を用意するお金も無いし、その責任も無いと弟子たちは思っていたようです。確かに、人々は招かれたのではなく勝手に押しかけてきたのですから当然かもしれません。しかし、イエス様が与えた命令は「あなたがたが食べ物を与えなさい」というものでした。弟子たちが与えられるものは数百万円分のパンではありませんでした。五つのパンと二匹の魚と言う乏しすぎる素材でしたがそれはイエス様が神に感謝を捧げ裂かれて分かたれたものでした。なんと男だけで5千人の人々が(女性も子どもも入れると1万人を超えている!)満腹し更に残りを集めると十二の籠に一杯になったというではありませんか。弟子たちはこの奇跡を目の当たりにして「神に捧げられ裂かれたものこそを与えよ」という使命を心に刻んだことだろうと思います。数年後、ペトロは施しを乞うて彼を見つめる人に対して「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と不自由な足を癒して立ち上がらせる奇跡を行っています。(使徒言行録3章1―10)
 私たちは「誰に、どこまですべきか」という責任範囲と予算の組み合わせの常識的な判断で日常生活を営んでいます。しかし、五つのパンと二匹の魚に象徴される「主が感謝し、裂かれ、分かたれたもの」は常識の範囲を超えてそこに集まったすべての人に、満腹になるまで与えられるのです。
 人生になんども躓きました。道を失ったわたしを友人が教会の聖書研究会に誘ってくれました。これをきっかけに教会に転がり込み今日に至っています。後先考えずにイエス様のところにきた群衆の一人のような、食事なんか振舞ってもらえないわたしにでも「さあ食べよ」とパンと魚が廻って来たようなものだと思っています。そして、今でも空腹で途方にくれているとどこからかパンと魚が廻ってきそうな気がします。