2009年7月26日  聖霊降臨後第8主日 (B年)


司祭 ヨハネ 黒田 裕

「そばを通り過ぎようとされた」【マルコ6:45−52】

 子どもの頃--子どもの多くがそうだと思いますが--忍者が好きでして、『忍者百科』といった本を買ってもらって、そこに載っている面白い道具やかっこいい武器を眺めて喜んでいました。忍者の代表的な道具といえば手裏剣ですが、私が当時いちばん気になったのは「水グモ」という道具でした。雪国のかんじきを巨大化して、いかだにしたような道具なのですが、これを両足に履きますと、水の上をスイスイ歩けるというものです。ちなみに後で知ったことですが、実際は、これを履いても沈んでしまって全く役に立たなかったようです。ですが、当時私はこれがたいへん気に入りまして、一度乗ってみたいものだと思いました。それだけではなくある時、イエスさまも、実はこの「水グモ」に乗っていたんじゃないか、と母親に真剣に訴えましたところ、「馬鹿なことを言うんじゃない!」と、これまた真剣にこっぴどく叱られてしまったのでした。
 このように子どもの頃から、そして後の青年期にいたるまで、私はこの箇所を見るとき、もっぱらイエスさまの湖上歩行ばかりに目が向きがちだったように思います。しかし、最近では、それよりもむしろ「そばを通り過ぎようとされた」(48節)というところが気になってしまいます。というのは、弟子たちは舟を漕ぎ悩んでいた。前に進もうにも向かい風で進めない、難儀していたわけです。それで、イエスさまが来てくださった。だとしたら、すんなり助けてくれたらいいじゃないかと思うからです。しかし、わざわざ「そばを通り過ぎようとされ」る。助けに来てくれたのなら、舟に直行してくれれば良さそうなものなのに、通りすぎようとされたというのです。どういうことなのでしょうか。
 見ようによっては、意地悪に見える、この振る舞い、実は、単なる意地悪でもなければ、根も葉もないことでもありません。旧約聖書のヨブ記(ヨブ9:8、11)には、こんなくだりがあります。
    神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる(8節)
    神がそばを通られてもわたしは気づかず
    過ぎ行かれてもそれと悟らない(11節)
 「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」これが、「湖の上を歩く」の背景にあります。そして、「神がそばを通られてもわたしは気づかず/過ぎ行かれてもそれと悟らない」これが、今回のイエスさまの、「そばを通り過ぎようとされた」という振る舞いの背景にあるのです。
 ここには旧約の時代から流れる一つのテーマがあります。それは、目では見ていても、本当には見ていない、という人間の問題です。神さまの働きを一応目撃はしているのですが、本当には分かっていない。私たちの日常でも、よく「心の目で見る」ことが大切だ、と言われますが、まさにそうで、心で見たか、「心で理解」(イザ6:10)したかどうか、が問題なのです。そして、実際、少し前にさかのぼって、4章(12節)には、人々は「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず...」と言われています。
 その意味で「そばを通り過ぎようとされた」というのは、その行動じたいが、弟子たちへの一つの問いかけでありました。「あなたがたは、私に気づくか?」「私を見ることができるか?」という問いかけです。もっと言いますと、本当の意味での「見る」というのは、真の姿を受け容れる、ということです。私たち自身も、自分が誤解されているとき、自分の本当の姿を見てほしい、と思うわけです。そこからも分かるように、つまり、この問いかけは、イエスさまの真の姿--メシア、救い主、キリストであること--を受け容れるか、という問いかけになっているのです。
 では、その問いかけに、弟子たちはきちんと応えることができたでしょうか。できませんでした。彼らはイエスさまを、あろうことか「幽霊」と勘違いして大騒ぎをして、おびえます。そんな弟子たちの姿を見てイエスさまが言われたのが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」というみ言でした。「わたしだ」、それは、わたしはここにいる、という確固たる存在をあらわすことばです。かつて、神さまは、モーセの前にあらわれて、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と自らを言い表しました。無から有を造りだす神さまは、すべての存在をあらしめるお方なのでした。そして、そうであるがゆえに、イエスさまが、「わたしだ」「わたしはここにいる」とおっしゃるとき、それは、私たちの存在をあらしめる、私たち一人ひとりの存在の根拠を言いあらわしてくださっているのでした。また、そのような方が、私たちと共にいてくださる、それが私たちの存在の支えです。
 では、なぜ、ここで、イエスさまは、そうおっしゃられたのでしょうか。それは、ひとえに、弟子たちの存在が小さくされようとしていた、否定される方向に動いていたからです。
 といいますのも、もう一度ふりかえってみると、イエスさまが弟子たちの舟にやってきた、そのきっかけは、彼らが逆風のため漕ぎ悩んでいたからなのでした。それをイエスさまは「見た」のです。漕ぎ悩んでいる、つまり存在が否定される方向へと押し戻されている彼らを「見た」すなわち「受け容れた」、からこそ、イエスさまは彼らのところにやってきたのでした。
 つまり、確かにイエスさまは「そばを通り過ぎようと」することで、彼らに、自らを救い主として受け容れるかどうかを問いかけました。しかし、そう問いかける前に、それに先立って、彼らを受け容れている、そこが重要な点なのです。
 湖の上を歩いたり、風を静めたり、そうした奇跡の秘密は、じつは、こうした、その存在が小さくされようとしていたり、否定されようとしている存在を「見た」「受け容れた」ことの具体的なあらわれなのです。そうした、神による人間の「受け容れ」を、聖書は「憐れみ」とも呼んでいます。その「受け容れ」「憐れみ」が最高度に達したのが十字架の出来事なのでした。
 こうして、その「受け容れ」「憐れみ」が、この世のものをはるかに越えているがゆえに、奇跡という形であらわされるのです。比類なきお方であるからこそ、他のあらゆるものと同じではない、他の一切のものに埋没するようなお方ではないことが明らかになるために、水のなかに沈まず、水の上を行く方でなければならなかったのです。
 私たち自身、人生行路(航路)をゆくなかで、時折、逆風に悩まされます。しかし、そのときにイエスさまは「そばを通り過ぎようとされ」るという形で、私たちに「私を見るか」「私を受け容れるか」と問いかけおられます。しかし、その問いかけは、決して私たちをいたずらに試すようなものではありません。なぜなら、その問いかけの前提には、漕ぎ悩む私たちを「見て」くださる、もっと言えば、イエスさまご自身が痛み苦しみながら私たちを「受け容れて」くださるということがあるからです。あるいはまた、私たちの存在が無視されたり、無き者とされようとするとき、私たちの叫びは「私はここにいるぞ」という形をとります。そのような根源的な私たちの困窮を受け止めて、イエスさまは、イエスさまご自身が「わたしがここにいるぞ。だから安心しなさい。恐れなくていいよ。」と語りかけてくださいます。
 そうしてみると、イエスさまの、あの問いかけ、「私を見るか」「私を救い主として受け容れるか」という問いかけは、問いかけでありながら、(その前提に「憐れみ」「受け容れ」があるがゆえに)私たちへの「招き」であるように思われます。時には私たちの心は硬くなって、頑なになって、その「招き」を招きとして受け取り損ねるかもしれません。そうしていたずらに、恐れ、怯えるのかもしれません。しかし、的外れにもイエスさまを見誤り、怯えた弟子たちをもイエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と受け止めてくださっています。
 そこに信頼して、私たちは、みんなで共に、イエスさまの「招き」に応えて神の国へと一歩を進めたいと思うのです。