2009年8月16日  聖霊降臨後第11主日 (B年)


執事 アンナ 三木メイ

「このパンを食べる者は永遠に生きる。」【ヨハネによる福音書6章58節】

 私たちは、どんな状況で生活していても、いつどこでどんな食べ物を食べ、どんな飲み物を飲むかを、一日に何度か考えます。人が健康な肉体を維持していくために備えられた食欲が正常に働いている時には、ごく自然なことです。しかし、近年の健康ブームによって、さまざまな栄養補助食品(サプリメント)が発売・宣伝されるようになり、現代人の多くはそれらの何を飲むのか飲まないのかを考えることも、日常的行為になってきたのではないでしょうか。それは自然な食欲からではなく、健康維持への自分の不安を少しでも解消したいという心理的な渇望があるからです。実は、私自身も何種類かのサプリメントを飲んでいます。どういう効果がどれだけあるのかは自分ではわかりません。ただ製作会社が誠意ある研究成果を出していることを信じ、そしてそれを飲用すれば自分のからだにとって良い効果をもたらすだろうと期待するばかりです。化粧品関係の通信販売も盛んです。「○○を使えば輝く美肌に!」という宣伝文句を横目で見ながら、何となく気持ちが揺らぎます。今世の中には、いかにも自己愛的欲求を満してくれそうな情報が溢れています。
 肉体的な命は限りあるものと頭でわかっていても、目に見えるものに執着し、何を食べ何を飲むのかを考えながら、私たちは生きています。聖書はそういう人間の変わらぬ生きざまを踏まえて語りかけます。旧約聖書の箴言では、「知恵」が意志の弱い者にこう言います。
 「わたしのパンを食べ、わたしの調合した酒を飲むがよい、浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために。」(箴言9:5〜6)
 神の「知恵」が与えてくれるパンや料理やお酒とは何でしょうか。命を得て、分別ある道を歩めるようになるための食事を、「知恵」が準備して呼びかけているというのです。
 「主を畏れることは、知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。わたしによって、あなたの命の日々もその年月も増す。」(箴言9:10〜11)
 「知恵」がその食事によって養うものは主なる神を畏れ敬う心であり、それによって神の豊かな恵みが与えられるのです。
 新約聖書の福音書においては、神によって備えられた食卓で食べなさいと勧められているのは、十字架上で死なれたイエス・キリストのからだと血です。
 言葉どおりに聞くと、ぎょっとする表現です。
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ福音書6:54〜55)
 原始キリスト教団が語り伝えたこの聖餐の奥義は、当時はおそらく多くの人々にとってなかなか理解できない、受け入れがたい内容だったのではないでしょうか。ヨハネ福音書では、イエスは父なる神がこの世に派遣された神の子・救い主であること、イエスこそ神の愛そのものをあらわす「パン」であること、その裂かれた「パン」を分ち合い、愛をもって生きることで、永遠の命という最終的な神の救いに入れられることが、繰り返し語られています。しかし、この言葉につまずいて教団を離れた人々もいたようです。彼らの神の子への期待は、おそらく別のところにあったのでしょう。
 私たちは、何かと自分の欲求を満たすことに心を奪われることが多いですけれど、自分の飲み物、食べ物に日々気を配るのと同じくらいに、目に見えない「命のパン」を神様からいただいていることを心に留めましょう。そして、その「パン」に養われていることを神に感謝しつつ、御心にかなって、愛をもってすべての人々と共に生きていく心を大切にして歩んでいきましょう。永遠に続く神様との交わりの歩みは、すでに始まっています。