2009年8月23日  聖霊降臨後第12主日 (B年)


執事 アグネス 三浦恵子

 今日の福音箇所(ヨハネによる福音書第6章60−69節)には、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言った弟子たちの「つぶやく」様子が記されています。それは、イエスさまが会堂で教えられた時の話の内容に対しての弟子たちの反応です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」そして「わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。」と言う教えでした。ここで弟子たちの多くは離れ去り、12人の弟子は留まったことが記されています。「実にひどい話だ。」という表現でもわかりますように、離れ去った弟子たちは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」の意味を理解できなかったのです。イエスさまのもとに留まった12人の弟子の1人ペテロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」とイエスさまと共に歩むことを告白します。しかし、これを読む私たちは、ペテロをはじめ留まった弟子さえ、「実にひどい話だ。」と言わなかったものの、理解できたかは不明です。更に、共に歩むことを告白したこの弟子たちは、イエスさまのご受難の時、離れ去ってしまったことを私たちは知っています。ですから、かえって、ペテロの告白は、私たち自身の信仰でさえ、予測出来ない事態が突きつけられた時、混乱と無理解によって、私たち自身がどのような行動をとるかという不安を呼び覚ます言葉として響いてまいります。
 この箇所を読んでいて、以前、私が洗礼、堅信を受けていないため、陪餐の時パンとぶどう酒を頂けない頃の様々な事を思い出されてきました。教会の信徒さんから、「日曜日、礼拝に来る日は朝ご飯は食べないよ。もし食べるなら、1時間前までに済ますといいよ」と聞きました。その方は、朝ご飯を食べないということを、長く当たり前のように守っていらっしゃるということでした。それは、イエスさまの体と血であるパンとぶどう酒が一般の食物と混ざらないためと説明されました。そして、他の信徒さんから、「昔、陪餐の時ぶどう酒が床にこぼれたら、伝道師の方が床に顔を付け舌できれいに舐めたのよ」と教えられたことがありました。これらのパンとぶどう酒についての話は、洗礼、堅信を待ちわびている私にとって、「ひどい話」ではなく、むしろ、そのような大切なものを頂ける日が来ることが実感として伝わり、喜びが増すばかりでした。日曜日朝、教会に集う信徒さんたちは、一人一人礼拝堂で膝まつき、神さまに向き合いお祈りをしてからそれぞれの奉仕の場である掃除や台所へ行きました。また、礼拝堂に入ったらおしゃべりを慎むということを教えられました。そのような多くの信徒さんの姿によって私は信じる力が増し加えられたのだと思います。
 「つぶやく」という言葉が41節にもあります。イエスさまが、「わたしは天から降って来たパンである。」と言われたあと、それを聞いたユダヤ人たちは、「ヨセフの子ではないか。我々はその父も母も知っている。」と「つぶやき始めた」とあります。ヨハネによる福音書が書かれた時代背景は、ユダヤ教の会堂からキリスト信者を追放するという決定が下された頃でした。イエスさまを信じるキリスト信者は、様々な「つぶやき」によって、動揺し分裂し、脱落してゆく者が出始めたことが知られています。ヨハネによる福音書には、イエスさまの晩餐の場面が描かれていないのですが、今日の福音書の箇所は、読む者に聖餐式のパンとぶどう酒の秘儀を想起させ、そして、48節の「わたしは命のパンである」というみ言葉によって確かなものとされます。今もなお、聖餐式のパンとぶどう酒によって、わたしたちの信仰を養う霊の力が与えられていることを教えられているようです。その秘儀によって、わたしたちは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。」と告白できる者であり続けることができるのです。復活されたイエスさまは、ご自身のご受難の時、離れ去り隠れていた者をお赦しになり、パンを分かち合い食卓を共になさったのですから。
 今、教会に命を与える基礎となっているのは、神さまから力を与えられたキリスト信者にあるといえるでしょう。弱さや限界あるわたしたちは、教会で行なわれる聖餐式によって生きる力を与えられる者のとされます。それを可能にするのは、神さまを信じるキリスト信者であり、教会はその器なのです。