2009年10月4日  聖霊降臨後第18主日 (B年)


司祭 マーク シュタール

事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。(ヘブライ人への手紙2:11)

 聖書は、創世記で始まってはいますが、創世記から書かれたのではないことがわかっています。実際、イスラエルの人々には元々、創造の物語がありませんでした。彼らの歴史は、アブラハムの逗留から始まっています。彼らは捕われて初めて、バビロニアの創造の物語に接し、自分たちも神学的に創造の物語が必要だと感じ、バビロニアの物語を参考にしました。従って、創世記のアブラハム以前に出てくる物語は、バビロン捕囚から解放されてから書かれたものです。以降、この創造の物語は(創世記1章1節〜2章3節と2章4節から25節の2箇所)ユダヤ教の正典になりました。
 まず最初の話は、創造主である神様がいかに神聖で全知全能かを語り、創造の場所と順序が細かく書かれています。実に、すばらしく簡潔で権威的な物語です。2つ目の話は、神様と神様の創造者との関係について憂いています。より、「地上的」で芸術的、牧歌的な響きです。この2つの話は、ユダヤ・キリスト教の伝統の二面性を表しています。司祭的側面と羊飼い的側面、そして、人間の一般的な二面性、保守と革新をも表しています。
 実に、イエスは今日の福音書の中で、この二つの伝統を用いて、ファリサイ派を咎めます。ファリサイ派は、またしても神学的な言葉のあやでイエスを試します。自分たちが掟破りだと思うことをイエスが果たして許すか、批判するかを。イエスは肯定も否定することもなく、彼らが人間が定めた法でなく、神様の領域に入り込んでいることを諭します。それを試すこと自体が間違っていると示唆しています。全ての男女は神の子であり、それぞれ個人がそうであるように男女の結婚も神聖なものなのだと。もし、人が自らの存在を神聖なものと受け取れないのなら、離婚の本当の意味は何なのでしょう?自らの神聖、他人の神聖、そして結婚の神聖さについて真剣に考えなければいけません。イエスがファリサイ派を批判するのは、彼らの悪意を見透かしていたからである。
 しかし、今日の使徒書では、胸を突きます。イエス自身が神聖と世俗という区別に戸惑います。実は、イエス自身がその表裏一体のものなのです。パウロは、私達が忘れ勝ちなイエスのこの側面に焦点を当てます。神様はイエスを私達と同じ肉と心を持った者として創りました。イエスは人間と同じように十字架の上で苦しみました。神様はその苦しみを和らげることが出来ただろうと思うことでなおのこと、苦しみは深く、長く感じられます。神様はその苦しみを和らげることをしませんでした。人間と同じ苦しみを受けることによって、イエスは私達に代わって苦しみを一身にお引き受けになったのです。肉体的にも苦しんだからこそ、人間の苦しみを知ったのです。パウロが描くようにイエスの体験があって、イエスは肉となった神の子でありながら、神に創造された者は皆、源を同じにするということがわかるのです。すると、「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たち」の区別はどうつけたらいいのでしょう。神の子である私達が自らの神聖を認めるかどうかは、全くの自由であり、その判断はとても厳格で無限で包括的なものになる。

 主に感謝