2009年10月18日  聖霊降臨後第20主日 (B年)


司祭 ヨシュア 柳原義之

主が担われたわたしたちの病い

 肝臓は「沈黙の臓器」と言われている。自覚症状を感じる時にはかなり肝機能障害が進んでいて手遅れになることも多く、早期の診断治療と同時に日頃の節制が大切となるが、なかなか日常の生活を整えるのが難しい課題となる。C型肝炎のキャリアと判ってすでに15年以上の月日が経った。「よく眠る、ストレスをためない、太らない、この3つできる?」と訊かれ、「どれも無理です。」と答えた。インターフェロンにもトライしたが、残念ながら当時報道されていた副作用を経験するだけで効果はなく、現在に至るまで肝機能を落とさないようにする投薬と注射を続けている。さらに他にも異常があり、病院では「今日はどっちの診察?」と言われるほど顔なじみになっている。太い腕に似合わない見つかりにくい針の刺しにくい細い血管らしく、看護師さん達が「今日は1回で(針が)入ったからいいことありそう」と言い、「今日、〜ジャンボを買うと当たるかもね」と冗談を言い交わすほどになっている。
 病院ではたくさんの人が診察を待っている。特に地方の病院では医師不足もあり、様々な検査にまわり、担当医の診察を待つ光景はいつ行っても同じだ。その中で力なく待つ人、身の不自由さについつい声を荒げる人、どこが病気なのかよく分からない元気そうに大声で話すご婦人たち、入院の準備をして来院し、その傍らで心配気に待つ家族・・・。どこにも病があふれている。

 イザヤ書の「苦難の僕」の姿には「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのは私達の痛み」とある。イエスの十字架へと向かう姿に、パウロをはじめ福音記者たちはイザヤの預言の成就を見たのだろう。そしてイエスが出会った人たちの病を癒されたのをみて、「まさにこの人だ」と思ったに違いない。そして、その記事を現代のわたしたちが読む時、イエスが、このわたしの病をともに担ってくださることに安らぎと感謝を感じている人が多いことだろう。
 しかしイエスが担われた「病と痛み」は「病気や怪我」だけではなかった。それは後の節にもあるように「(神への)背き」であり、それゆえに与えられた「わたしたちの咎(とが)」だった。誰の心にも潜む「罪」という問題こそがイエスが負って歩かれたものであった。
 肝臓と同じように「罪」もまた「沈黙の病」である。日頃、犯していても自分では「これこそ正義」と思ってしまう。小さな罪が重なって大きな病となっているにもかかわらず、自覚症状がないために見過ごしている。今日の福音書に出てくる「ゼベダイの子、ヤコブとヨハネ」もまたそうであった。イエスが受ける「栄光」をよく理解せずに、その時には「一人をあなたの右に、左に」と言い放ち、皆よりも自分の方が上、と思っていたのかもしれない。さらにそのことで腹を立て始めた他の弟子とて同じことと言える。高慢な心がいつしか弟子達の心を「病」に陥れたが、彼らはそれに気付くこともなかった。
 病の中でも最も恐ろしいのは「死に至る病」で、これは「罪を罪として認めない」心のかたくなさ、もその一つであると言える。自分の犯した罪をいつまでも認められない人には、根治治療どころか対症治療さえも施せず、結局は「死に至る」ことになる。イエスがともに背負ってくださるのを拒否し、自分の腹を神として歩み続けてしまう。イエスはそんな人の罪も背負っておられるのだろうか。そんな罪も背負いながらあの十字架にかかられたのだろうか。