2009年11月8日  聖霊降臨後第23主日 (B年)


司祭 ペテロ 浜屋憲夫

1. 本日の福音書朗読には、マルコ 12:38〜44が選ばれています。選ばれた箇所には、イエスが神殿の境内で教えられた話が2つ含まれています。
   
2. 一つ目の話の方は、イエスがこの話を誰に語られたのかハッキリとは書いてありませんが、元のマルコの福音書の流れを考えますと、イエスの周りに集まってきたいろいろな人々とイエスの弟子達と考えてよさそうです。
   
3. 二つ目の話の方は、ハッキリと「弟子達を呼び寄せて」と書いてありますから、一般の人々に話すのではなく、「弟子達だけ」に語られた話と考えて読むべきと思われます。
   
4. この二つの話は、元々何の関係も無い話として伝えられたものが、マルコによって「マルコ福音書」のこの場所に続けておかれたもののようです。
   
5. この二つの話は、マルコ福音書の流れの中では、大きな枠の中で、ゆるい関連があるように見えますが、無理してこの二つの話を一つにまとめて解釈する必要はなく、別々の話として、それぞれに解し、味わってかまわないと考えます。
   
6. 一つ目の話は、比較的分かりやすい話です。 律法学者の偽善への警告。神の言葉を預かる者が自分の預かる言葉が教える姿と全く正反対の人間的な欲丸出しの姿を人目にさらしている。そのことに気がつかない暗さ。
   
7. その欲が見せかけのかっこ良さだけにとどまるのならまだよいのだが、やもめの家を食いつぶすとなると、これは「人一倍厳しい裁きを受けることになる。」のは、当然です。
   
8. 田川健三の「新約聖書 訳と註」を見ますと、ここは、「彼らは、やもめの家を食いつぶし、その言い訳に長々と祈る。」と訳してあります。とても良くわかる訳です。註をみますと、「この言い方からすれば、気の弱いやもめの家に行って、祈ってやるから謝礼金をよこせ、といったことをやらかしていたのだろう。」とあります。田川のこの註は強烈ですが、やはりそのような状況があったのでしょう。イエスは、それを本当に許せなかったのでしょう。
   
9. 二つ目の話は、「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」と書いてあるわけですから、マルコはこの話は一応イエスが実際に金持ち達と一人の貧しいやもめが賽銭箱にお金を入れるのを見た場面として物語を書いているのですが、イエスが貧しいやもめが賽銭箱に入れた(多分、投げ入れた)のが、小銭2個であったとどうしてわかったのか疑問が残ります。イエスの視力はそんなに良かったのでしょうか。
   
10. 「新共同訳聖書注解」は、そのあたりのことについて、「イエスは各人の賽銭の額をどうして知ったのか、あるいは貧しいやもめが生活費のすべてを捧げたことをどうして知ったのか。このエピソードの語り手はこの種の問いには関心を持っていない。イエスの超能力を示すこともこの話しの意図ではない。」とわかったような、わからないような注を書いています。
   
11. この話は、やはり田川が註しているように、イエスが実際にこんな場面を見て弟子達に話したのではなく、どんな宗教にもある宗教説話(例えば「貧者の一燈」のような)をイエスが使って、イエスが弟子達に何かを教えた話とみるほうが解釈しやすいと思われます。
   
12. それでは、この話を使ってイエスが弟子達に教えたかったのはどんなことなのかということが当然問題になります。
   
13.

先ず、そうではないだろうという解釈を先に検討してみたいと思います。それは、「この話を聞く人は、皆この貧しいやもめのように全財産を献金しなければならない」と読む読み方。

   
14. 聖公会の信徒の方々は常識に富んでいる方々が多いですから、先ずこんな解釈は論外であると思われるだろうと思うのですが。一部のカルト教団では、こんな解釈も通用するようです。例えば、あの有名なオウム真理教団。
   
15. 私は、このお話はイエスが弟子達に「献金」のことを教える話として語ったのではないと考えます。
   
16. 大体、一番初めに確認しましたように、この話は、イエスがわざわざ「弟子たちを呼び寄せて」弟子達だけに語られた話です。イエスについてあちこち放浪の旅をしていた弟子達が「献金」をしていたとは思われません。
   
17. この話は「献金」ではなく、「献身」を弟子達に教えた話だと思われます。自分の全てを捧げてイエスについていっていたのが、イエスの弟子達でありました。自分の一部を留保しながら、イエスについていくということは不可能なのだということを、イエスはこの話を使って弟子達に教え、また確認をしたのだと思われます。
   
18. またこのことは、この話を読む私達にとってもとても大切なメッセージになります。信徒全てが「献身」して聖職になれるものではありませんが、信徒であっても信仰生活の中心はやはり「自分自身の義ではなく、神の義に自分自身を捧げていくこと」だと思います。
   
19. 私の大好きなあの聖歌が思い出されます。 『神の国と神の義を先ず求めなさい。すべてものは与えられる。ハレルヤ、ハレルヤ。』