2010年3月7日  大斎節第3主日 (C年)


執事 サムエル 奥 晋一郎

「悔い改めることを、待っていてくださっているイエスさま」【ルカ13・1−9】

 本日の福音書はルカによる福音書第13章1節から9節までの箇所です。まず、この箇所の前半部分1節から5節までの箇所では、2つの災難を取り上げられています。イエスさまはこれらの災難にあった人が、そうでない人よりも罪深い者だからではないと話しかけてきた人々に言います。さらに、イエスさまは彼らに悔い改めるようにと言います。

 後半部分の6節から9節の箇所では「実のならないいちじくの木」のたとえをイエスさまは話します。まず、ある人がぶどう園にあるいちじくの木に実がなっているかを見ます。そして実がなっていないのを確認すると園丁に「3年間も実がならないから、いちじくの木を切り倒しなさい。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言います。それに対して園丁は「今年もそのままにしてください。木の周りを掘って、肥やしを与えます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。それでもだめなら切り倒してください」と主人に願い、自ら切り倒すことを拒否します。この主人と園丁のやりとりは、悔い改めない者に対する神様の忍耐強さを表しています。

 本日は「悔い改める」と言う言葉に注目しましょう。聖書が伝える悔い改めは過去自らの罪を認め、新しく生かされるために、心を神様に向けることです。悔い改めという言葉は国語辞典で調べますと、道徳的に過去の過ちを反省して心がけを変えることだと書かれていました。ですから、たとえば不良少年が立ち直って、まじめな人間になったことを考えてしまいます。

 ところが、聖書での悔い改めは特定の人のみではなく、すべての人が対象です。イエスさまはすべての人々に悔い改めを迫ります。イエスさまは罪がないと思い、悔い改める必要のないと思っている人に悔い改める必要であることを伝えます。

 道徳的に優秀であったにもかかわらず、イエスさまに出会い、悔い改めた(回心した)人物がいます。その中の一人がパウロです。パウロは元々、律法に忠実で、当時のユダヤ社会の中心であったファリサイ派の熱心な信徒でした。パウロは決して悪党、泥棒ではありませんでした。

 パウロは自分には罪はない、律法を忠実に守っているのだから自分こそ救われるのだと思っていました。しかし、パウロはイエスさまに出会い、他の人を裁いていたことを悔い改め、回心します。その後のパウロはイエスさまを信じ、神様に心を向けて生きていきます。イエスさまはそのようなパウロを伝道のために当時の地中海沿岸の各地に遣わしたのでした。

 私たちは、時として、本日の福音書に登場する人々、また悔い改める前のパウロのように心を神さまに向けることを忘れて、自分の行い、考えが正しいから、人を見下すことや、人を裁いてしまうことがあるかもしれません。そのようなときに、イエスさまは私たちにも悔い改めるようにと言われています。

 この悔い改め、懺悔の祈りを、わたしたちは毎週日曜日、また日々の礼拝で行っています。懺悔の祈りでわたしたちは思い当たることあったとしても、また思い当たることがなかったとしても自らの思いと言葉と行いによって罪を犯したことを懺悔します。さらに聖餐式では主教、司祭がわたしたちのために、イエスさまに代わり、罪の赦しと新しい生涯、心新たにされて、神様に心を向けていく生活ができるようにと祈ってくださいます。

 この懺悔の祈りは教会に来る人だけが対象ではありません。イエスさまはすべての人に懺悔、悔い改めの祈りを行って欲しいと願っておられます。本日の福音書に登場する、実のならないいちじくの木を見捨てないように、イエスさまはすべての人を見捨てません。そうではなくイエスさまはすべての人が心を神様に向けるように、悔い改めるように、忍耐強く待っていてくださいます。イエスさまは私たちが祈る前に私たちのために祈ってくださっています。

 このことに感謝して、わたしたちは一人でも多くの人が礼拝に集う教会になり、イエスさまが願ったおられる悔い改めの祈りができるように、願い、祈り、行動することができればと思います。