2010年7月25日  聖霊降臨後第9主日 (C年)


司祭 アンナ 三木メイ

「主イエスが教えてくださった、わたしたちの祈り」【ルカ11:1〜13】

 「祈り」という言葉を聞くと、あなたはどのような情景を思い浮かべるでしょうか。特定の宗教の信仰をもっていない大多数の日本人も、例えばお正月には神社に初詣に行って、今年一年が良い年でありますように、と祈ります。自分のこと、自分の家族のこと、または他者と社会全体の幸せを祈ります。ただ、それはしばしば実際的に言葉を発するのではなく、一人一人それぞれが心の中で祈ります。場合によっては、自分の願いや祈りを絵馬に書いたり、短冊に書いて笹の枝に結んだりします。こういう祈りは、基本的に個人の祈りです。
 イエスの弟子たちは、自分たちがどのような祈りをしたらいいのか、と教えを請いました。そこで、イエスは言われました。
   「祈るときにはこう言いなさい。
   『父よ、御名が崇められますように。
   御国が来ますように。
   わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
   わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を
   皆赦しますから。
   わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
 これがその後キリスト教会に広く伝承され、今も大切に唱えられている「主の祈り」の一部です。これは、個人の祈りではなく、「わたしたちの祈り」であり、共同の祈りです。キリスト者は「主の祈り」を暗記して繰り返しとなえます。そのように日常的に用いる祈りです。福音書記者ルカはだからこそ、この後に、友達のために執拗にパンを求める人のたとえ話を入れたのかもしれません。これは「わたしのパン」だけではなく「わたしたちのパン」なのです。そして「わたしの罪」だけでなく「わたしたちの罪」なのです。主イエスは、他者を含めた「わたしたち」全体について祈ることを教えておられるのです。
 この箇所より前の10章には有名な「善いサマリア人」のたとえ話が書かれています。そこには最も重要な神の掟についての記述が出てきます。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい。」この言葉は、ユダヤ人たちが「シェマの祈り」と名づけて、毎日朝夕2回唱えていた、日常の祈りでした。しかし、日常的に繰り返し唱えてその祈りの言葉に慣れてしまうにつれ、それを本当に心から祈るのではなく、口に出して唱えるだけ、頭でわかっているだけ、になってしまう危険性があるのではないでしょうか。だからこそ、後に続くたとえ話は、そのような人間の心をもう一度みつめ直させようとしているのかもしれません。
 ルカはパンを求めるたとえ話の後にこう記しました。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。・・・・そして、天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
 主イエスが教えてくださった「わたしたちの祈り」を通して、神の見えない力である聖霊を、真心をもって祈り求めて行きましょう。