2010年9月12日  聖霊降臨後第16主日 (C年)


司祭 エッサイ 矢萩新一

「さがされてますよ」【ルカによる福音書15:1−10】

 今日の福音書は「自分たちは救いに近い」と高をくくっているファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスがたとえを語られる場面です。聖書の中のイエスは、私たちの常識や価値観とは全く逆の行動をしたり、全く異なる方向から発想したりした話をよくされます。というよりも、目先の利益や安易な方へと流されやすい人間の心をよく知っておられて、忘れていた大切なことを思い出させるように、身近なたとえを用いて話をされています。今日の福音書も、そんなイエスの常識外れの行動、価値観の反転を促すたとえ話しです。
 私たちは、自分がこんなにまじめに一生懸命やっているのになぜ結果が出ないのだろうかと嘆きたくなる時があると思います。神さまに文句の一つでも言いたくなる経験が皆さんにおありでしょう。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、不平を言いだしたファリサイ派の人々や律法学者たちも同じような心境ではなかったでしょうか。イエスが一緒に食卓を囲んでいた徴税人や罪人とは、世間の常識や価値観からすれば、まっとうな道を踏み外した人たち、いわば人生の敗者と見られていた人たちです。多くの人は、自分たちはあの人たちと比べれば、まっとうな人生を歩んでいる、救いに近い存在なんだという安心感を覚えていたのではないでしょうか。
 しかしイエスは、まっとうな人生を歩んでいると自負している人たちよりも、道を踏み外し人生の敗者だと思われている罪人や徴税人の悔い改めを喜ぶ人でした。どうして自分は道を踏み外したのだろうか、このままで良いのだろうかと自分自身を振返る気持ちが悔い改めの心だからです。イエスはその切っ掛けを与えてくださる存在、どうしようもない自分でも大切に思ってくれる人がいる、愛してくれる人がいるということを示す存在として、私たちと共にいて下さいます。なぜあの人が?と、やきもちを焼いてしまうくらい、とことん関わって下さいます。
 99匹の道を踏み外さない羊や、残りの9枚のドラクメ銀貨よりも、見失った1匹の大切な羊や無くした掛け替えのない1枚を見つけ出して喜ぶ感性を持つのが、イエスです。とはいっても決して99匹の羊や残りの9枚がどうでもいいと言うのではなく、それらの一つ一つ、1匹1匹も同じように大切な掛け替えのない存在として愛しておられます。世間が99匹で教会が1匹、自分たちは9枚であの人は1枚といった単純なものではありません。イエスは羊飼いで、囲いの中に入っていない羊も導かなければならないと言っておられます。あの人は駄目だからとすぐに見下して切り捨てるのではなく、自分の弱さに気付いて少し軌道修正しようとする心、悔い改めようとする心が大切なのだと思います。良いことをして顧みてもらおうとする人間の努力で救われるのではありません。羊や銀貨の方から見つけ出してもらおうとするのではなく、見つけ出して下さるのは、あくまでも持ち主であり飼い主である神さまです。
 人からやきもちを焼かれるほど愛して関わって下さる方、見つかるまで探し続けて下さる神さまに触れた時、私たちはそれに応えようとします。その悔い改めの心を神さまは喜ばれます。見つけたことをあなたも一緒に喜んで下さい、ねたむのではなく一緒に喜べる感性を持つようにとイエスは教えます。
目先の利益や結果を急ぐのではなく、長い目で見て、小さい喜び、人からすればなんて無駄なことを、と思われるようなことこそ大切にしていきたいと思います。決して自己満足に陥るのではなくて、神さまの不思議な働きに気付いて、それに応えようと心がける者、喜ぶ人と一緒に喜べますようにと願う者であれれば素敵だと思います。