2010年10月24日  聖霊降臨後第22主日 (C年)


司祭 セオドラ 池本則子

『祈り』はストレス対処法

 先日、京都教区セクシュアル・ハラスメント防止委員会主催による研修会がありました。その中で臨床心理士の先生からストレスについての話を伺いました。私たちはこの社会の中でいろいろなストレスを感じています。その感じ方は人それぞれでみな違いますが、全くストレスがないなどという人はまずいません。ですから、ストレスの対処法がとても大切になってきます。ストレスの対処法は人によってかなりの差があります。講演では、ストレスの対処法にどのようなものがあるかという話がありましたが、その中のひとつに『祈る』ということがありました。確かに私も祈ることによってずいぶん助けられた経験があり、クリスチャンであることの恵み、幸せを感じました。
 今週の福音書【ルカ18:9−14】には2人の対照的な祈りが記されています。『わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』と、自分とほかの人を比較して感謝し、さらに自分が行っていることを自慢しているファリサイ派の人と、ただ『罪人のわたしを憐れんでください』とだけ祈る徴税人。そして、この2人のうち、義とされて、つまり神様に正しい祈りとして受け入れられ、神様の祝福と恵みに与って家に帰ることができたのは徴税人であった、とイエス様は言われています。
 ファリサイ派の人は立って、心の中で祈りました。一方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら祈ったのです。ファリサイ派の人は多分神殿の前の方に立ち、顔を上に上げて、心の中で祈ったとはいえ、自分は罪を犯すような悪いこともしていないし、律法の規定を忠実に守っている正しい人間である、と胸を張って得意げに祈っていたのではないでしょうか。確かに、ファリサイ派の人たちは指導的立場にいて、律法をきちんと守り敬虔な生活を送っている人たちでしたから、祈りで言っていることは決してうそではなかったでしょう。しかし、このような祈りや姿勢は神様から受け入れられるものではありませんでした。一方、徴税人は、ユダヤ人でありながらもユダヤ社会の中では罪人としてみなされ、疎外され、嫌われていましたから、たいへんなストレスを抱えていたのではないでしょうか。ですから、神殿の後ろの方で目も上げず、ただ一言『罪人のわたしを憐れんでください』とだけしか言えなかったのだと思います。人と比較するでも自慢するでもなく、ただただ神様の憐みを乞うしかできなかったのです。そして、その姿勢・祈りが神様に受け入れられ、徴税人は心いやされて家に帰っていくことができたのでした。
 さて、それでは私たちがストレスを感じて神様に祈る時、ファリサイ派の人か徴税人か、どちらに近い祈り・姿勢をするでしょうか。当然、徴税人の祈りでしょう。自分が正しいと信じ、人と比べて感謝する時にはストレスはないでしょう。ストレスを感じている時にはつらくてしんどいから、どうしていいかわからず困っているから、どうしようもない気持ちになっているから、何とか神様に助けて欲しいと祈るのではないでしょうか。体を縮めて下を向き、『助けてください。憐れんでください』と祈るのです。『自分の力ではどうすることもできない弱いわたしです。そんなわたしを助け、憐れんでください』、と必死で神様に祈る時、心がいやされ、安らぎと勇気と希望が与えられるのではないでしょうか。