2010年11月7日  聖霊降臨後第24主日 (C年)


司祭 サムエル 門脇光禅

「相手にわかる方法で復活を語るイエスさま」【ルカによる福音書20章27節以下】

 ルカによる福音書の20章は神殿境内で福音を語るイエスさまに祭司長、律法学者、長老たちが議論を吹っかけにやって来る箇所です。それに対し、イエスさまは次々とお答えになっていきます。
 今日のお話はサドカイ派といわれる人々が「復活」についての問答を持って来たお話です。
 旧約聖書の申命記25章5節に「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし」の引用と思います。
 「複数の兄弟に嫁いだ女性は天国で復活したとき一体兄弟の誰の妻なのですか」という意地悪な問題です。イエスさまの時代のこの律法が施行されていたかは考えにくいですが、申命記にある以上モーセの掟であるにちがいないわけですから、サドカイ派の言い分は彼らの中では拘束力はあったのでしょう。
 ところで、話の前提として覚えておきたいことは、サドカイ派とファリサイ派は似て非なるものということです。
 ファリサイ派は純粋に宗教団体ですが、サドカイ派は当時のユダヤでは財力もあり、貴族や祭司、つまりは支配階級でした。そして彼らはその支配階級を維持したいためときとしてローマに協力さえしていたのです。
 ファリサイ派は旧約聖書のほかに口伝律法や、儀式律法など沢山の規則を受け入れていましたが、サドカイ派は旧約聖書の成文律法しか受け入れていませんでした。特にモーセの律法だけを重視していました。
 さらに、ファリサイ派の信仰は死人の復活と、天使と霊の存在を信じていたのですが、サドカイ派はそれらの存在を否定していました。
 また、ファリサイ派はメシア到来を信じ待望していましたが、サドカイ派にとっては現在の自分たちの地位生活を脅かす煩わしい思想と感じていたに違いなかったのでしょう。サドカイ派にとっては復活信 仰の愚かさを実証しようと思ったのでしょう。本日のテキストはこのような中での質問でした。
 イエスさまの答えは、「地上の言葉で天国を語るべきではない」というものでした。「天国とはどんなものかという議論をするエネルギーを神さまの愛に向けたほうがどれほど豊かな信仰になるか」とお話しなさったわけです。そしてイエスさまはさらに復活について語ります。
 サドカイ派の否復活論の根拠はモーセの律法には証拠になる資料がないということでした。
 イエスさまはあえて彼らに「主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」と出エジプト記3:6のモーセに語られた神さまのみ声を聞いたことを例に上げました。
 そして、アブラハムもイサクもヤコブも今なお生きていると主張し、だからこそ死人の復活はありえるのだと結んだのです。おもしろいことに、律法学者の中に「先生、立派なお答えです」と感心してしまうものがいたのも納得できます。
 今日の福音書の箇所で考えさせられるのはイエスさまは「自分の議論を、相手の人が理解できる仕方で展開されている点」です。とかく私たちは正しいと思われることを相手に理解してもらおうと論理展開ばかり駆使して話してしまいがちです。神学的な言葉が稚拙であろうと、愛と誠意をもって相手に分かる用語を用いたらさらなるキリストの良き証人としての働きが出来るではないでしょうか。
                                                        主に感謝