2010年11月21日  降臨節前主日 (C年)


司祭 パウロ 北山和民

 「災いだ! わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは!」と主は言われる。【エレミヤ23章1−】
 現代語なら「!」のマークがつくだろう、上記のいわゆる「災い(禍い)章句」は、預言書に限っても35回もある。イエス様の言葉にもルカ11章39以下が有名。
 この章句は、死者への嘆き、忌諱(死を忌む)感情の「ホーイ」という発声(近くはアイゴーとかアイヤーとか)に由来すると言われている。「ああ、情けない、情けない、この国の指導者達は!」でも弱すぎるぐらいの嘆きである。現代どこかの国と同じようだが、ここでは国民ではなく、神が嘆いているとエレミヤは預言する。そして、「指導者達を廃して、神である私自身が代わりに世(お前達の心に)に出現する」と言われているぞ! と続く。これらエレミヤの言葉は、ユダの王たちに「ダビデは羊飼いだった」ことも想起させる。これらのゆえに指導者達は心底震え上がるのである。現代の指導者たち、わたしたちは、どれほどこの厳粛さをわかっているだろうか。
 さて、C年の最終主日。次週からA年降臨節が始まる。今日はいわば教会活動の一年の決算日である。たとえが良くないかもしれないが、赤字を隠して決算を粉飾する罪の重さを経営者は深く知る。神を信じてない経営者でも「神の裁き」を知るのが決算報告といえる。そしてこの決算を誠実に報告するとき、同時に「新しい」営みがゆるされるのである。
 教会運営に関わるわたし達も「生きている神様の裁き」とは、「厳粛さ」とはいったい何かと、今一度思いを致し襟を正したいと思う。
 わたし達はこの降臨節前主日にどんな態度で礼拝すべきなのか。
 聖霊降臨の期節を名ばかり、自分の必要と願いのマンネリ化した礼拝をしていないだろうか、振り返りたいと思う。
 「受けるよりは与えるほうが幸い」と言われる主イエスの言葉をいつも記憶して経済活動、社会生活をしてきただろうか。
 「全能の神が皆さんを憐れみ、全ての罪を赦し、恵みと力を与え、御心に叶う新しい生涯をおくらせて下さいますように【祈祷書171】」を心に刻み、嘘のない心での「アーメン(真実です!)」を新たにしたいものです。以上