2010年12月12日  降臨節第3主日 (A年)


司祭 ヨハネ 古賀久幸

自分で名乗らなくても【マタイによる福音書11章2−11】

 もうずいぶん前になりますが、商店街で宗教関係らしい若ものが歌と踊りで注目を集めビラを配っていました。それには「最終解脱者がやって来る」と大きく印刷されていました。数年後、この最終解脱者と追随者たちは世の終わりを喧伝して地下鉄でサリンを撒き、社会を震撼させる事件を次々と起こしました。オウム真理教です。自分は○○だと自らヒーローを気取る輩は昔からたくさんでてきましたが、だいたいはどこかで勘違いをしている人物で胡散臭さがあるものです。イエス様は「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗るものが大勢現れ、『わたしがメシアだ』いって多くの人を惑わすだろう」と混迷のときにあっても冷静であることを教えられています。
 来るべきメシアの道を備える先ぶれの人、バプテスマのヨハネは獄中にあり、イエス様のもとに弟子を遣わしました。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と問われたイエス様の答えは「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」だけです。そこで起こっていることは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、・・・貧しい人は福音を告げ知らされている」のでした。イエス様はけっして自己宣伝されませんでした。この世界に起こっているできごとを見ればそれがいったい何をさししめすのか、それで充分だったのです。
 西成教会の元牧師故金井愛明先生のもとで実習をしていたとき、金井先生はじめキリスト者がキリスト教のキの字も言わずあいりん地区の労働者のために地道な働きをされていることを目の当たりにしました。いまでもそのような働きをしている方々がおられます。自分が何者か、そこでは口に出す必要はありません。ただ、ただ地道にひたすらにこれが自分の仕事、と生きている無名のキリスト者がいます。そのような存在の仕方はわたしたちの生き方にも大切なことを教えてくれます。私たちもこの小さな人生をとおして、まわりの人々がちょっとでも楽になったら、慰めがあったら、癒されることがあったら、そんな器のために用いていくださいとの祈りをささげたいものです。