2010年12月19日  降臨節第4主日 (A年)


司祭 ヨハネ 黒田 裕

恐れるな【マタイによる福音書1:18−25】

 何年も前のことになるが、路上に止まっている車のミラーに、自分の車のミラーをコツンと当ててしまったことがある。私はすぐに停車し駆けつけて「すみません」と声をかけたのだが、運転席にいた相手にすぐさま怒鳴りつけられた。これは仕方のないことと思う。しかし、その後が後味の悪いものとなった。というのは、結果的には相手のミラーは傷ついても壊れてもいないのに、相手は傷がついたと罵声を浴びせながら主張するのである。そして、こういう場合に通常考えられる提案をこちらはするのだが、それらは受け容れられず、今すぐ塗装しろ、それができないなら今ここで修理代よこせ、と無体なことをいう。こちらが最初に下手(したて)に出たのを見て、お金を引っ張りだせると思ったのだろう。しかし、まさかその要求を呑むわけにはいかないので、連絡先だけ教えてその場は終わった。その後何の連絡もないところを見ると、やはり傷や故障等は無かったのだろう。
 切ないのは、こんなに露骨にお金を目当てにしてくる人がやはりいるのだ、ということである。それまでに、このような軽微な事故を2度ほど経験していたが、いずれもこのようなことはなかった。中年の男性だったが、結構すごんできて、こちらは平静を装いつつも、実は内心コワかった。それだけに、お金を渡せばすぐに済むかなという思いもよぎらなかったわけではない。が、「イカン、イカン」とすぐに打ち消して、相手の要求を断ったのだった。その出来事を思い出すにつけ、「恐れ」というのは怖いものだなと痛感する。もしあの時、コワさに負けてお金を出していたらどうなっていたであろうか。その後もどんどん要求がエスカレートしていく可能性があるし、視点を変えれば、こちらにつけこませることによって、相手に罪を一つ犯させることにもなる。さらには、これに味をしめて、別の人にも同じことをするかもしれない。そう考えると、「恐れ」からは良い結果は生まれてこないということがわかる。
 以上は、個人的な話しだが、より大きい次元でも、というか、大きい次元になるほど「恐れ」は、より深刻な事態を引き起こすように思われる。あの9.11同時テロ事件以降は特に、まさに「恐れ」の問題が世界規模の深刻さで立ち現われてきているといえるのではないか。ある社会学者はその著作のなかで、テロの本質は、「恐怖によって社会的影響を与えること」と語っている。つまりテロの第一の目的は、その社会に「恐れ」を生じさせることにある。そして、その「恐れ」はさらに混乱を生み、その結果人びとに判断を誤らせることになる。私は「恐れ」が引き起こす深刻な問題、それは人びとのさまざまな判断を誤らせることにあるのではないかと思う。振り返ってみると、事件のあまりの衝撃の大きさから多くの人々が報復攻撃肯定にまわって、事態を冷静に見つめることができなかったのではないか。因みに、そんな中にあって、アメリカ聖公会は当初から政府に対して冷静に対応するよう求めたと聞く。
 こうして、「恐れ」は混乱を生み、混乱は判断の誤りを生む、ということが言えそうである。
 さて、ここにヨセフという一人の男がいる。彼は大きな混乱のなかにあった。というのも彼自身の婚約者が、彼によらず幼な子を身ごもっていたからだった。聖書はそれを「聖霊によって」(身ごもっている)(18節)と語っている。が、しかし、当時のヨセフとその周囲の者から見ればそれは、「婚外子」に他ならなかった。そこでヨセフは婚約者マリアと「ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。しかし、ここで一つ疑問が生じる。縁を切るのはヨセフが「正しい人」だったからというのだ。縁を切るのがどうして「正しい」のか。
 実は、当時の規範のなかではヨセフの決断は確かに「正しい」ものであった。というのも、当時の律法では、婚外子をもうけることは石打の刑に値する罪だったからである。ヨセフはマリアを愛していた。むしろ、ヨセフは愛するマリアを石打の刑にしないために、マリアを死罪から救うために、あえて縁を切ろうとしたのだった。その判断は人としては賢明なものといえる。しかし、神の目からはその判断は誤りであった。神の意志は、この子がヨセフとマリアによって育てられることにあったのである。そこで、その意志を伝える天使は言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい―」(20節)
 私は、降臨節のメッセージの重要な要素の一つは「恐れるな」だと思う。恐れは混乱を生じさせ、判断を誤らせる。主のご降誕は、恐れからくる混乱によって判断を誤ろうとしていた一人の男への「恐れるな」とのメッセージから始まっている。クリスマスを目前にして、そのときにふさわしい備えとして、わたしたちは神からの「恐れるな」との使信を共に分かち合い、味わいたい。