2011年1月30日  顕現後第4主日(A年)


司祭 テモテ 宮嶋 眞

「悲しむ者は幸い」【マタイによる福音書5章1〜12節】

 聖書本文の中でも大変有名な箇所です。
 イエスが山に登って話されたことから、山上の説教(山上の垂訓)といわれています。おそらく、色々なときにイエスが語られたものをまとめたものだと思われます。

 この冒頭でイエスは、「心の貧しい人びとは、幸いである」に始まる8つの「幸い」(実際には更に一つ付け加えられて9箇所ある)について語っています。
 「幸い」というと、日本語のイメージは「ハッピーなこと」と思われるかもしれませんが、元の言葉では「神からの祝福がある」ということです。様々な逆境にある人たちが、そのままでハッピーだというのはおかしい話です。むしろ、そのような人の上にこそ、神の守りと祝福があるのだという宣言なのです。だからこそ、ありがたい言葉(福音)なのです。
 「心が貧しい」というと日本語では、精神的な貧しさを意味しますが、これでは間違った訳と言っても良いくらいです。本来は、「自分の貧しさを知る」「神の前に人間として欠けていることを知っている」といった意味でしょうか。イエスが語られた実際の言葉としては、ルカによる福音書の6章のほうに書かれている「貧しい人びとは幸いである」のほうが、近いといわれます。イエスは、心の貧しさではなく、何より、貧しい人のそばで、神がともにおられることを宣言されたのです。

 一つ一つの「幸い」の解説は、ここではいたしません。ただ、2番目の「悲しんでいる人々は幸い」にかかわることを申し上げます。この箇所を踏まえて詩を書き残した人がいます。
 韓国の尹東柱(ゆんどんじゅ)という人です。彼は第二次世界大戦下、日本に留学し、朝鮮語での詩作を続け、治安維持法違反の嫌疑で逮捕され、若くして獄中で非業の死を遂げました。
 彼が残した詩の中に、この聖書の箇所を踏まえた「八福」という詩があります。

     悲しむ者は、幸いである
     悲しむ者は、幸いである
     悲しむ者は、幸いである
     悲しむ者は、幸いである
     悲しむ者は、幸いである
     悲しむ者は、幸いである
     悲しむ者は、幸いである
     悲しむ者は、幸いである
     私たちは(または、彼らは)永遠に悲しむであろう。

 この詩に出会ったとき、わたしは言葉を失ってしまいました。
 元の聖書の言葉にある「心の貧しい」「柔和な」「義に飢え渇く」「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」人々、これら、イエスに「幸い」と言われた人々は皆、「悲しむ者」といえます。それも悲しむ一人ひとりなのです。その悲しむ一人ひとりがいる限り、私たちも、彼らも悲しみ続ける。イエスも、神も共にいてくださって、悲しみ続ける、と言っているようです。
 どうか、山上の言葉と、尹東柱の詩を、今一度味わってみてください。