2011年4月24日   復活日(A年)


主教 ステパノ 高地 敬

必ず立ち上る―石が取りのけてある―

 「日本は強い国。みんなでやれば乗り越えられる」と、震災後しばらくたってからのテレビのCMで誰かが繰り返し言っていました。今回の震災の後でみんなを励ますために作られたものだと思いますが、そのCMを見ながら、たとえ日本が強いのであったとしても、個人個人はそんなに強くはないだろうとぼんやり考えておりました。普段は強い人であっても、地震や津波の恐怖や、突然に家族を失うなどということが身に降りかかってくれば望みを失い、何かをする気力もすぐには湧いてこないのが当たり前なのではないでしょうか。
 ただ、耐えがたいことが起こったとしても再び立ち上がるということが私たちの信仰の大きなテーマの一つでありました。このことをどんなふうに私たちは捉えているのでしょうか。
 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているか、わたしたちには分かりません。」
 一人の大切な人が生き返ったことを、初めだれも信じませんでした。まして自分も生き返ることができるなどとだれが信じられるでしょう。自分に苦しいことがあっても、もう一度頑張って立ち上がっていこうと考えるのはとても難しいことです。自分はそんなに強くないから立ち上がれる日が来るとも思えないし、立ち上がろうにもだれも支えてくれない。
 それでも被災地の人々がいつか必ず立ち上ってほしいと私たちは願います。とても辛いだろうけれども、再び立ち上がってほしい。そのように願う時には、自分にも問いかけているのでしょう。「今まで辛い時にも何とか立ち上ってきたから、これからも何とかなるだろうか。」
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアはお墓に行って、「墓から石が取りのけてあるのを見た。」不安と恐怖を抱えたまま、彼女は大切な人を失ったことをあきらめきれないまま弔いのために墓に行きました。行くと石が取りのけてありましたが、彼女にはまだその意味が分かりません。
彼女と同じように、私たちは弱いからこそ過去を簡単にあきらめることができません。家族や思い出を大切にするためにも神様は私たちをこのようにお造りくださったのだと思います。大切な人や思い出の品を失った時の痛みはとても大きく辛いことですが、そんな時にこそ神様が私たちに促しておられることがありました。
 いつまでも過去を引きずってしまう私たちが立ち上がろうとするとき妨げとなる石があるとすると、それは「孤独」です。人と人との間にある「孤独」という大きな妨げの石。この石は取りのけることが難しいことがしばしばです。でも、イエス様の時にそうであったように、私たちの復活を妨げる孤独という名の石も、一夜明ければ取りのけてあることに気がつくことがないでしょうか。「あなたは決して一人ではない。」この言葉が私たちの耳に届くとき、それと共に石が取りのけられ、弱い者同士支え合って新しく生きていくことが神様に促されておりました。