2011年5月1日   復活節第2主日(A年)


司祭 サムエル 門脇光禅

「イエスさまが教会に託されたもの」【ヨハネによる福音書20章19節以下】

 お弟子さんたちは、最後の晩餐が行われたあの2階座敷で集まっていたかどうかは、考えられますがどうだか疑問もあります。なぜなら彼らはほんとうに恐れていたからです。ユダヤ人たちはイエスさまの処刑を達成したのです。今度は弟子たちの番が廻ってくるに違いないと思っていたでしょう。不安に駆られながら、集まっていました。近づく足音にもびくびくしながら、耳をそばだてていたとき、突然イエスさまが現れて真ん中に立ちました。驚いたでしょうね。「あなたがたに平和があるように。」この言葉「あなた方の問題が解決しますように」以上の意味合いがあります。つまりこの言葉には「神があなたがたにあらゆるよいものを備えてくださるように」という意味が含まれています。
 そして、イエスさまは弟子たちに使命を与えます。それは、今日も教会が決して忘れてはならないものです。
 イエスさまは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」といわれました。この意味は、まずイエスさまが教会を必要としているということです。後にパウロは教会を「キリストの体」(エフェソ1:23、Tコリ12:12)と呼んだときに意味したのと同じことです。
 イエスさまはすべての人びとに福音を伝えたかったのですが、今神さまのもとに帰ろうとしていました。その使信は、教会が伝えなければならないのです。主の体なる教会がイエスさまの語る口、イエスさまの御用のため走る足、イエスさまの業を行う手でなければならないはずなのです。
 イエスさまの使信は、教会に委ねられたのです。教会が世界のいたるところにイエスさまの物語を伝えなかったなら世の救い主とならなかったはずです。だからイエスさまは教会に依存しているのです。
逆もいえます、それは教会がイエスさまを必要としているということです。遣わされる人には、その人を遣わす人が必要です。携えて行く使信が必要です。その使信を裏打ちしてくれる力と権威が必要です。疑いや困難に出会う時に助けを求める人が必要です。教会はイエスさまを必要としています。イエスさまなくしては使信も力もなく、イエスさまなくして、障害に直面しても助けを求められません。イエスさまなくして思いを照らし、心を励ます何物もありません。こういうわけで、教会はイエスさまに依存しているのです。
 そして、教会がイエスさまによって遣わされることと、イエスさまが神さまによって遣わされることとの間には、平行関係があるのです。ところが、わたしたちにはイエスさまと神さまとの関係が、常にイエスさまの完全な服従と自己否定と愛とによるものと認めざるを得ません。完全な服従と完全な愛とを神さまにささげたからこそ、イエスさまは神さまの完全な使者となれたのでしょう。ですから、きょうかいは、イエスさまに全き愛をささげ、イエスさまに完全に服従するときはじめて、キリストの使者にふさわしいものとなり得るのではないでしょうか。教会は断じて自分自身の使信を伝えようとしてはならないのです。教会は自分の作り上げた方策に従おうとしてはならないのです。キリストのみ心に従うことにこそ、勤めるべきと思うのです。歴史を眺めたとき、教会が、何かの問題を自分の知恵や力で解決しようとして、イエスさまのみ心や導きを求めようとしないときいつもその問題は解決するどころかかえって問題は大きくなっていると思うのです。
主に感謝