2011年5月8日   復活節第3主日(A年)


司祭 ヨブ 加納嘉人

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。2人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださった時、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。【ルカによる福音書24章30−31節】

 今日の福音書【ルカ24:13−35】は「エマオ途上」とか「エマオへの道」(「エマオで現れる」:新共同訳)と呼ばれて親しまれている聖書の箇所です。イエスさまの二人の弟子が、エマオの村へと歩きながら話し合っています。この二人の体験を、ひととき、わたしたちも一緒に味わいたいと思います。
 イエスさまという方に出会い、人生をかける決心をし、多くのものを捨ててつき従ってきたこの二人。しかし、そのイエスさまは、罪人とされ、十字架にかけられ、死んでしまわれます。失意・悲しみ・絶望の中で、仲間の女性たちがイエスさまの墓へ出かけ、そこで起こったこと、体験したことについて、弟子たちはその証言を聞きました。イエスさまの遺体を見つけることができなかった、天使たちが現れ「イエスは生きておられる」と告げた、という証言です。それを聞いた弟子たちはどう思ったでしょうか。「そうか、イエスさまは生きておられるのか、それは良かった」と思ったでしょうか。そんなはずはない。はっきりしていることは、イエスさまの遺体が見つからなくなったことだけではないか、と思ったのではないでしょうか。もしかすると、「大きな悲しみと喪失感を抱えて墓へ行った女性たちが、イエスの遺体をも見失ってしまい、天使の幻を見てしまうほどの心の状態になってしまったのか」と思ったかもしれません。いや、あるいは逆に、女性たちの証言に一筋の希望の光を見出そうとしたかもしれません。
 この二人の弟子は、そんな話をお互いに交わしながらエマオへの道を進みます。「話し合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」復活のイエスさまは、イエスさまの方から弟子たちに近づき、一緒に歩いてくださいます。イエスは弟子たちに問いかけられます。「その話は何のことですか」。その問いに応えて弟子たちは自分の体験を語ります。それを聞いたうえで、イエスはご自身で聖書の言葉を説明されるのです。弟子たちは強いてイエスを引きとめ、家へと招きます。食事の席で、イエスはパンを取り、感謝し、裂き、与えられました。すると、弟子たちは、ようやくその人がイエスだと分かります。しかし、その時、そのお姿は見えなくなりました。
 イエスが近づいて下さり、イエスが問いかけてくださいます。それに応えてわたしたちは自分に起こっている現実を、思いわずらいを打ち明けます。するとイエスは自ら聖書を説明されるのです。そして食事の席につき、イエスはパンを取り…。わたしたちが聖餐式で体験する救いの出来事はここから始まったと言えるのではないでしょうか。
 この二人の弟子たちの、絶望は希望へ、希望は信仰へ、信仰は確信へと変えられて行きました。わたしたちもイエスさまに希望を置くとき、復活の主に出会います。いや、すでに近づいていてくださったイエスさまに気づかされるのです。主イエスさまがわたしたちに、もう一度立ち上がる力を与えてくださいます。復活にあずからせてくださるのです。主に感謝