2011年5月15日   復活節第4主日(A年)


司祭 パウロ 北山和民

イエスは言われた「….門から入るものが羊飼いである」「アーメン、わたしは羊の門である」…このたとえをファリサイに話したが、彼らは理解できなかった。(ヨハネ10:1-)

 今年の復活節は日本人にとって千年に一度の特別なものです。二万三千余の命が失われ、その家族達と原発事故により生きる基盤を奪われた人たちの「悲しみと怒りの物語」に耳を傾けるこの国の「復活」の礼拝をしなければなりません。
 本日は例年「神学校のために祈る主日」で、イエスさまの言葉から「教会のリーダーシップとはなにか?」などを主題に説教されています。しかし、今までのような「イエスさまが良い羊飼いとしてわたし達の教会を発展させ、しっかり守って下さいます。感謝です…」といった説教は、現在この国の多くの人をがっかりさせるものになるでしょう。
わたし達の教会ができること、それは被災人たちを忘れないこと、祈りをあきらめないことではないでしょうか。
 「羊の門であると宣言した人」が「十字架に死んだ人」いう逆説的なイメージを如何に豊かに福音書の文脈に保持し、記憶し続けておくのか、説教者は黙想しなければならない。つまりこの羊の門というイメージはインサイダー(助け求めうめく人たち・主と在る人たち)とアウトサイダー(助け手になれる可能性を持った外の人)を際立たすのです。今まで「このたとえを理解できなかった(10:6)者、『見える』といっている(9:14)者」こそわたし達(原発の恩恵で繁栄した日本)のことなのかもしれません。
 現象学哲学で言う「他者性」の保持へとわたし達を導くのです。つまりヨハネ福音書は、あのファリサイのように「この日本の宗教文化とイエス(復活の命)とはつながらない」という考えに強く抗議しているのです。ヨハネ福音書とは「日本の危機に日本の復活への道としてイエスを見なさい。原発を何とかしろと叫ぶ漁師や酪農家たちを尊敬してイエスの意志を理解せよ。」とわたしたちに求めているのです。そして「ひとりの羊飼いにみちびかれ、一つの群れとなる(10:16)」福音に招いているのです。 以上