2011年5月22日   復活節第5主日(A年)


司祭 バルナバ 小林 聡

「一つとなるために 〜名によって願う祈り〜」【ヨハネ14:1−14】

 キリスト教のお祈りの仕方には、パターンがあります。まず、神様への呼びかけ、次に感謝、そして願い、最期に主イエス・キリストのみ名によって、アーメン、と祈ります。
 この最期の名によって祈るということが今日の聖書の箇所と関連してきます。
 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14:13)
 単に何でもかなえてあげよう、だったら、どんどん信者が増えそうなのですが、その前に、「わたしの名によって」と付いています。ここでいうわたしとは、イエスさまのことです。聖書の世界では名というのはその人の人格をあらわします。つまり名によって祈ると言うことは、イエス様と一緒に、イエス様を通して祈ると言うことで、突き詰めて言えばイエス様と一体となって祈るということになります。
 私たちは、願いを祈れると言うことも嬉しいことなのですが、一緒にお祈りできる、あるいはお祈り自体が誰かと一つにされていることの中にあることを思う時、祈りのもつ深い意味を考えさせられます。
 イエス様が、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言われたテキストを少し前の部分から読んでみると、こんな言葉から始まっています。
 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(ヨハネ14:1)
 心を騒がせるような不安なことがあったとしても、神さまとイエスさまを信じなさいと言われます。それは、目の前にいるイエスさまのことが信じられるというだけではなく、イエスさまと神さまが心を一つにして生きておられ、それゆえにそこから命が溢れていることが信じられるということなのです。
 この神さまとイエスさまの一体性をイエスさまは弟子たちに告げておられます。その上で、私たちがイエスさまのお名前を通して祈るという時、私たちも、神さまとイエスさまとの一体性の中に入れられて、一緒になって祈っているということになります。
 主イエス・キリストのみ名によって、アーメンと祈る時、わたしたちは、イエスさまと一緒になって祈るのと同時に、神さまと一つになって生きられた、イエスさまと神さまの一体性の中に入れられる経験をします。それは、わたしたちの願いが聞き届けられ、神さまの願いを私たちも願い、生きる者とされるという交わりの祈りとなるのです。
 私たちが、自分のことだけではなく、共に生きていけますように、この一つとなるためのお祈りを、祈っていきたいと思います。