2011年7月3日   聖霊降臨後第3主日(A年)


司祭 アンナ 三木メイ

『平和の君はろばの子に乗って』

 エルサレムに入城する時、イエスはわざわざ弟子たちに命じて子ろばを用意させ、その上に乗って行き、群衆は「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と歓喜の声をあげて彼を迎えた、と新約聖書の4つの福音書すべてに書き記されています。それは、旧約の預言者ゼカリヤの言葉どおりに、イエスが神から救い主メシアとして遣わされたことを示す姿です。「娘エルサレムよ、歓喜の声をあげよ。見よ、あなたの王がくる。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る」。(ゼカリヤ9:9)
 この預言においては、メシアは「王」となっています。王様ならば、勝利して民衆の前に凱旋していく時は、豪華な衣裳か鎧を身に付け、りっぱな馬に乗って、多数の兵士を従えて、誇り高く威風堂々と行進していくのが普通なのではないでしょうか。ところが、この王は「ろば」に乗って来るというのです。力強さを見せつけるのではなく、謙遜に、貧しく、低く、なおかつ忍耐強く、背中の荷物を負ってしっかりと歩みを進める「ろば」の姿。メシアはその「ろば」と共に来て、神の平和を実現し、その支配は地の果てまで届く、と預言者は語ります。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」(ゼカリヤ書9:10)
 「平和」を維持するためには、自国を守り他国と戦うために強大な軍事力を持たねばならない、という考えは古代においても現代においても存在する社会通念です。そして「平和を守るために」という理由で、人間は互いに殺し合う悲惨な戦争を繰り返し、しかもこの暴力を正当化するために、神の名がたびたび利用されてきました。しかし、神の平和はそのような暴力によって実現されることはないのです。キリストは、十字架上の死という最も激しい暴力を受け、愛によって暴力を克服されました。徹底的非暴力が暴力の空しさを暴露したのです。私たちが神の平和を祈り願う時には、この非暴力のキリストを背負って歩む「ろば」となることが求められているのです。
 神学者小山晃佑は、「神学と暴力」と題した講演でこう語っています。「神は怒る。しかしその怒りは暴力にはならない。逆に暴力を働き、容認している人間社会に対して真剣に怒っておられるのであり、その愛の怒りが心ある人々を内面から動かして悪に対する直視と非暴力的抵抗へと向かわせるのであります。」(『神学と暴力?非暴力的愛の神学をめざして』森泉弘次、加藤久夫編訳、教文館2009年)
 忍耐強く、謙虚に、一歩ずつ、この重荷を負って主と共に歩んでいきましょう。主イエスは語りかけてくださっています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:29)