2011年7月17日   聖霊降臨後第5主日(A年)


司祭 バルトロマイ 三浦恒久

「ある人が良い種を畑に蒔いた」【マタイ13:24】

 イエスがご自身の使命を自覚されて、神の国宣教の働きを開始されました(マタイ4:17)。彼の説教や病気の癒しは、多くの群衆の共感を得ました(マタイ8:16)。一方、ファリサイ派の人々との安息日論争は、イエスの命にかかわる激しい対立を引き起こしました(マタイ12:14)。
 イエスの母とその兄弟は、このようなイエスの振る舞いを心配して、イエスに忠告するためにやってきました。イエスの身内の不安や心配は募るばかりでした(マタイ12:46、マルコ3:21)。しかしイエスは、ご自身の使命に、どこまでも忠実でした。
 「毒麦」のたとえには、二つの意味があります。その一つは、人は自らの善悪の規準に頼って、悪を性急に排除してはならない、という寛容さを教えていることです。これは、独善的なファリサイ派に対する批判の教えでもあります。
 もう一つは、悪の徹底的な排除ということです。マタイが属していた教会は深刻な問題を抱えていました。つまり、正しい信仰を妨げ、不法を行う信徒が存在していたのです。このたとえは、そのような教会への警告だったのです。

 では、あなたは、この「毒麦」のたとえからどのようなメッセージを聞くでしょうか。わたしは次のようなメッセージを、このたとえから与えられました。
 「ある人が良い種を畑に蒔いた」(マタイ13:24)
 「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」(マタイ13:27)
 「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(マタイ13:30)
 「良い種」とはイエスのことで、「毒麦」とはわたしのことです。イエスは神の言葉として、この世に来られました。そして、十字架の死と復活を通して、わたしを神の国に招き入れてくださいました。イエスはご自身の命を捨ててまで、わたしを救ってくださいました。

 ウイリアムス神学館の二人の神学生が、毎週土日、教会実習に来られます。これまでわたしは、およそ20数名の神学生を実習生として迎え入れましたが、大変多くのことを学ばせていただきました。
 わたしは神学生に、実習の心構えとして、「もてなす心」を大切にするようにと言い続けてきました。具体的には、「よく見て、よく聞いて、よく話して、よく感じる」ということです。「よく」とは「心を込めて=命がけで」という意味です。
 「一期一会」という言葉があります。その機会が一生に一度のものと心得て、心を込めて(命がけで)接しなさい、との意味です。「もてなす心」とはそういう心です。
 聖餐式で裂かれるパン。イエスはご自身の命を差し出してくださいます。その命をおしいただくたびに、涙が溢れてきます。イエスのもてなす心に触れ、感動するからです。
 「良い種」が畑に蒔かれたことは、「毒麦」であるわたしにとって福音です。「ハレルヤ」と心から主をほめたたえます。