2011年8月14日   聖霊降臨後第9主日(A年)

 

司祭 マーク シュタール

 ローマ人の信徒への手紙の9、10、11章は、パウロと初代教会にとって、厄介な問題を浮かび上がらせています。それは、ユダヤ人をどう扱うかと言う問題でした。彼らは選ばれた民で神様と特別で貴重な関係にありました。イエスやパウロが出現する前から、神様は彼らを通して、ご自身のご意志を実現しようとされていました。しかし、神の子イエスが生まれると、ユダヤ人として生まれ育ったイエスでありながら、ユダヤ人たちによって凄惨な最期を迎えました。パウロの課題はその重大なパラドックスを解き明かすことでした。
 その過程で、パウロも自分自身もユダヤ人であったこと、かつては選ばれたパリサイ派であったことを無視することはできませんでした。パウロの課題は、ユダヤ人をキリストの世界に導くことであるかのように最初は見えました。パウロは、最初、ユダヤ教に革命をもたらすことだと思ったかも知れません。パウロは、ユダヤ人が神に選ばれた民で、神様と特別な関係にあり、神との約束があることを否定することはしませんでした。しかし、ユダヤの救いの地が最終目的だとも考えませんでした。むしろ、この悩ましい問題の出発点であると考えました。
 ユダヤ人指導者達からユダヤ人のイエスが拒絶された意味合いは何か。それは、この世に生まれた如何なる異邦人も神の子となりうることを示しているのです。言い換えれば、ユダヤ人たちが示した拒絶は、異邦人を受け入れるということを意味していたのです。神様がファラオ達の心をかたくなにしたように、ユダヤ人の心をかたくなにさせていたのであれば、その理由は、全ての民へ信仰の道を示すためであったと言えます。イスラエル人を奴隷から解放したのと同じことです。神様は、ご自身の御心を示すためには、どのような民族をも用いるのです。