2011年10月16日      聖霊降臨後第18主日(A年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「神のものは神にかえしなさい」

 イエスさまを陥れようと、ユダヤの宗教権威者は、ここでまたわなをかけます。「皇帝に税金を納めるのは律法にかなっているか」もしここで「税を納めなくていい」と言えば、イエスさまはユダヤ支配しているローマに対して反政府運動指導者として訴える口実にできます。でも、反対に「税を納めなさい」と言えば、ユダヤの国の宗教を破壊し、ローマ皇帝を神とする異教国家である侵略者ローマを容認するものになるのです。ですからこの問いには、どちらに答えても、訴えられる口実になると言うわけです。イエスさまは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えました。まずひとつの事実として、高価なデナリオン銀貨を持っている、ファリサイ派の偽善を暴いたことになるでしょう。「あなたたちファリサイ派の人は、皇帝の肖像の刻まれた高価な銀貨を、実際持って、使っています。それによって利益を得ています。それなのに皇帝に税を納めるとき、つまり損をするときだけ、愛国心を持ち出し、訴えようというのはおかしいではないですか。皇帝が刻まれたお金は、皇帝のもとに返すのが当然でしょう」。イエスさまの答えはさらに続きます。「神のものは神のものに返しなさい」。含蓄あることばです。皇帝の像の刻まれたお金は払うとしても、皇帝は神なんかではありません。神さまはひとりしかいないのです。人間は神さまではありません。ですから神さまへの礼拝は、ちゃんと捧げるべきです。ただし皇帝を神として礼拝するようなローマ方式に従ってはいけません。そのことを「神のものは神に返せ」という言葉で、暗に示したとも言えるのではないでしょうか。ローマ皇帝であろうと、イスラエルの神のもとに服従しているに過ぎないのです。お金も神さまの支配のもとに使われ流れているに過ぎないのです。そんな偶像にとらわれることなく、本当の神さまを主として礼拝すべきです。そのことをはっきりと宣言したと言えるではないでしょうか。でも、また人間とは、「神さまの像を刻まれたもの」ということも想起すべきです。すべての人間は、神さまが大切に作られた神さまの似姿であり、像であって、他の人の「もの」になることはないのです。誰も他の人間に屈服することはありません。誰も支配者の像を刻まれたりしないわけです。人間が屈服するのはただ神さまだけなのです。神さまの像を刻まれた私たちですから神さまに似たものに日々なれるよう努力するべきなのです。ところが私たちの中には、気づかないまま、自分こそを皇帝にしようとする傾向があります。「自分を愛してください。仕えてください」と人に訴えがちです。そのような気持ちから、人間同士のあらゆる騒動は生まれてきます。 イエスさまはどうだったでしょうか。イエスさまこそ人を絶対的に自分に仕えさせることのできる存在でした。けれどもまったくそうせずに、かえって仕えるものとなり、自分をののしる者をも救おうとされる方でした。ここに人々を仕えさせる皇帝と、人々に仕える神さまとの違いがはっきり現れています。