2012年1月8日      顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(B年)

 

司祭 バルトロマイ 三浦恒久

自分を無にして、僕の身分になって【マルコによる福音書1:7〜11】

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコによる福音書1:11)

 年齢が60歳を超え、自分の体に変調を覚え、愕然とすることがあります。聖餐式で福音書を朗読している時、ろれつが回りにくくなり、膝がガクガクと震え、自分の体を支えられなくなるのです。いつそのような症状に襲われるのか分からないので、自分の前か横か後ろに何か支えがないと不安になります。
 年齢を重ねると、今まで造作なくできていたことができにくくなり、不安が募ってきます。しかし、その反面、今まで感じることができなかった人の痛みを、敏感に感じることができるようになりました。満員電車の車内で立っているお年寄りの方、地下鉄の階段を懸命に上っておられる足の不自由な方への配慮が、少しはできるようになったと思います。

 わたしには、なかなか解くことのできない一つの疑問がありました。それはなぜイエスが洗礼者ヨハネから、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を受けられたのかということです。神の子イエスがなぜそうされたのか、わたしには合点がいきませんでした。しかし60歳を超え、体力の衰えとともに人の痛みを感じることができるようになって、ようやくイエスの洗礼の意味が分かってきました。
 ある時、弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに願いました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」 これに対してイエスは答えられました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、みなに仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:35〜42参照)
 また、フィリピの信徒への手紙に、次のように書かれています。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6〜8)
 イエスは洗礼を受けることによって、自分を無にして、僕の身分になろうとされたのです。人の痛みを分かち合うために、人と同じ者になられたのです。それゆえに神は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とイエスを祝福されました。

 洗礼式において、洗礼を受ける者は神と会衆の前でいくつかの約束をしますが、その一つに次のような約束があります。
   司式者 あなたは、キリストを主と信じて従い、生涯その模範にならうことを約束しますか
   志願者 神の助けによって務めます
 この約束は大変重要で、洗礼を受けた者の果たすべき務めが明らかにされています。すなわちイエスがそうであったように、洗礼を受けた者は自分を無にして、僕の身分になって人に仕えなければならないということです。洗礼を受けた者は、人の傷みを分かち合うことが求められているのです。

 先日、ある方が杖を持参して教会に来られました。「いざという時にこの杖は必要なんです。この杖があると安心なんです」とその方は言われました。わたしはその方が、どんな思いで教会に来られたかを思い巡らしました。そして、体調に不安をかかえながら、万全ではない体をいたわりながら教会に来られているのだと気づかされました。そのように気づかされた時、その方の不安や思いを牧師や信徒はしっかりと受け止め、礼拝や集会のあり方、教会のソフト面・ハード面を考えていかなければならないと心から思いました。
 人の痛みを分かち合うことのできる者でありたいと思います。そのような思いを大切にする教会でありたいと思います。