2012年1月15日      顕現後第2主日(B年)

 

司祭 テモテ 宮嶋 眞

【ヨハネによる福音書1章43節から53節】

 イエス様が最初の弟子たちを招かれた話が、1章35節以下に出てきます。
 初めにアンデレと名の知れない弟子、次にペトロ、そして今日の箇所では、フィリポとナタナエルが招かれます。
 フィリポは、イエス様に招かれて素直に従ったようですが、もう一人のナタナエルは、少し懐疑的な人間だったのかもしれません。フィリポから、イエス様に出会ったことを伝え聞くと、イエス様の出身地が「ナザレ」村と知り、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言って拒否してしまいます。ナザレに対する偏見があったのでしょうか。それでも、フィリポはナタナエルを誘ってイエス様と引き合わせます。
イエス様はナタナエルに出会い「あなたは真のイスラエル人だ」と言われます。ヨハネ福音書では「ユダヤ人」と「イスラエル人」を区別して使っています。「ユダヤ人」は、旧態依然のユダヤ教を信じる人々。これに対して「イスラエル人」は、イエス様の救いを受け入れようとする人です。真のイスラエル人と言われたことは、本当は喜ぶべきことでしょうが、ここでイスラエル人と呼ばれたことについても、ナタナエルは引っかかります。「どうして、わたしのことを知っておられるのですか。」と。まるで食ってかかっているようです。
 イエス様は「あなたがイチジクの木の下にいたのを見た」と答えます。これは、文字通り木の下に居たのを見たということではないと思われます。イチジクの木は、地中海沿岸地方では大切にされ、繁栄や、平和のシンボルともみられていたようです。また人々はこの下で瞑想し、祈ることも多かったようです。「ナタナエルがイチジクの木の下にいるのを見た」という表現は、彼が絶えず祈る人であったとか、彼が平和の人であるということをイエス様が見抜いていたという意味があると思われます。
 自分では気づかないでいたふだんの行いや、思いの中に、大切なものがあると指摘され、ナタナエルは、イエス様を神の子として信じるようになったと福音書は伝えています。
 このナタナエルのあり方は、現代に生きる私たちのありさまによく似ているように思われます。様々な知識を持っているために、かえって偏見にも容易に取り込まれやすい私たち。そのため、たとえ本当の物に出あったとしても、それに疑いの目を向けてしまっているのではないでしょうか。しかし、イエス様は、私たちが、気づかずにしている良き行いをしっかりと見抜いてくださって、「あなたは本当に生きている。」「素晴らしい生き方をしているよ。」「だから、これからもしっかりと生きていきなさい。」と励ましてくださっているように思われるのです。